ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

日本宗教学会第65回学術大会

日本宗教学会第65回学術大会のパネルディスカッション「宗教における『語りえぬもの』と『示しうるもの』」を聞いてきました。

私は会場でレジュメをもらえず、なおかつきちんと発表内容を理解できたと言い難いので(門外漢には、大変難解な発表が多かったので)、以下のメモには、私の勘違いが多々含まれている可能性が高いことを念頭に置きながらお読みいただければと思います。*1


先ず、最初に星川啓慈先生が、「ウィトゲンシュタインとナーガールジュナの言語観」という発表を行いました。内容は、(多分)こんな感じです。先ず、ヴィトゲンシュタインは、世界内に存在する事実など(語り得るもの)と、世界外にある神・論理形式など(語り得ぬもの)を区別しました。彼は、『論理哲学論考』の中で、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と述べていましたが、実際には、語りえぬものを、語りえぬと知りつつ、暗示的に語ろうとしていたそうです。その意味で、彼は、読者を世界を正しく理解するよう導くという、宗教的な語り方をしていたと言えるそうです。

また、新しく発見されたヴィトゲンシュタインの私的な日記によって、彼が宗教的なことがらに大いに関心を持っていたことが明らかになったそうです。

他方、ナーガールジュナも、真実は言語によっては理解されない、言葉は虚構であると、言語中心主義を批判していました。

両者は、宗教は通常の言語で直接的には語り得ないという考え方で共通していたそうです。しかし、星川先生は、間接的に示す可能性は否定できない、その際に、メタファーやモデルなどが使えるのではないか、そしてメタファーやモデルなどによって、宗教間対話のための普遍言語が作れるのではないかとおっしゃっていました。

個人的な疑問は、次のようなものです。宗教は通常の言語で語り得ないと言う考えは、それほど珍しい考え方ではないと思いますが、その考えの普遍性を論証する際に、ヴィトゲンシュタインとナーガールジュナのたった二人の考えが共通しているということを示すだけで良いのだろうかと疑問に思いました。宗教をどのように捉えるかという問題には、長い長い論争の歴史があってもおかしくないと思うのですが、そのような歴史的コンテクストを無視して、何故時代も地方も違う二人の思想家の考えを選び出したのかが、良く分かりませんでした。これは、私が、哲学や思想史の方法論に無知だからかもしれませんが。

また、宗教間対話のための普遍言語を何のために作らなければならないのか、良く分かりませんでした。宗教間対話を行わなければならない理由については、余り説明されていなかったと記憶しているので、そもそもどのような問題に対処しようとしているかが分からず、普遍言語を作ろうという試みがどこから出てきたのか、何を達成しようとしているかが良く分かりませんでした。


次に、落合仁司先生の、「哲学的存在論・宗教的無限論・数学的集合論」という発表がありました。この発表では、旧来的な存在論的な言語ゲームは、対話の妨げになりかねないので、それを解決するために、集合論が使えるのではないかということが主張されていました。

先ず、有限なる人間に対して、神をどのように捉えるかで、二つの考え方があるそうです。一つ目は、存在神論で、神は限定されない存在それ自体と捉えられるそうです。道元やトマスが代表者だそうです。神は全体の中の部分になるそうです。もう一つは、他者神論で、神は存在者にとって他者であり、無限だと捉えられるそうです。ちなみに、私はこの両者の区別が、良く分かりませんでした。

無限を考えるなというアリストテレスの伝統に則り、キリスト教では、19世紀まで無限について余り考えられてこなかったそうです。しかし、19世紀に集合論によって、無限が扱えるようになったそうです。集合論の確立者カントールにとって、無限を扱うことは、神についての理論を考えることだったそうです。当時は、無限は扱うなという考えが支配的だったので、学会から圧力が掛かったが、教皇は彼に研究を発表させろと命令したそうです。

カントール集合論では、無限と部分は一致し、集合論的な観点においては、存在神論と他者神論に区別はないと考えられるそうです。

集合論は、数学の基礎なので、集合論を否定すると、微積分を否定することになり、となると物理学を否定することになり、科学、生物学など自然科学を否定することになる。しかし、無限は存在証明が不可能な公理であり、信仰するしかない、だから無限を信じる者は、有神論者になるということです。

個人的には、内容が良く理解できなかったので、なんとも言えませんが、ソーカルが怒らないような的確な内容だったら良いなと思いました。また、公理は信じるしかないから、科学者も有神論者ということになるという論理は、ゲーデル不完全性定理を証明した1931年から70年以上経った現在、数学者や科学者の間でも、珍しくはないものになっているのではないでしょうか。このような論理を、今現在持ち出す意味が良く分かりませんでした。


次に、島田裕巳先生は、「宗教言語の可能性と限界」という発表を行いました。島田先生は、これまでの新宗教研究では、新宗教だけを探求し、その新宗教が依って立つ元々の宗教を考慮してこなかった、しかし、創価学会なら日蓮の影響を無視できないので、元々の宗教にも目を向けなければならないのではないかと問題提起をしていました。

先生によれば、現代の日蓮系の宗派には、排他的な宗派が多いそうです。元々は、日蓮の四箇格言が、多宗派を全否定するようなものだったから、その影響を受けて彼の影響を受けた諸宗派も排他的になったそうです。この四箇格言がネックになり、現在でも宗派間の宥和が進まないのだそうです。

その排他性が生じた原因を探るため、日蓮の思想進展が検討されます。彼は、『守護国家論』という理論的著作で、天台宗の教判に基づき、法然の誤りを指摘していたそうです。この時彼は、一念三千、つまりわれわれの心の中に三千世界が広がっているという考えを強調したそうです。この考えは、元々は天台教学に由来しているそうですが、他宗派は関心を持たない教えだったそうです。しかし、日蓮は、他宗派からの批判を受けるたびに、よりこの考えを強調したため、終いには、日蓮宗と他宗派を大きく分ける教えになったそうです。

彼は、理の一念三千と事の一年三千を分けるようになり、元々認識論的な教えだった一念三千を、南無妙法蓮華教と唱えるという実践の中に無限があるという、具体的、現実的なものに発展させ、これが日蓮宗という枠組みを形作り、排他的な信仰を持つ宗派になったのだそうです。


最後に、渡辺光一先生の「人文科学研究におけるモデル化の意義」という発表がありました。先生によれば、宗教間の対立は、自分が理解していないものをめぐって生じているので、子供のケンカのようなものだそうです。また、先生は、インターネットサイトの書き込みを計量的に分析し共感的でない人が、スピリチュアリティーについて語りたがることを明らかにしたそうです。また、幾つかの宗派の人たちに、別の宗派の教義を読ませて、感想を聞いたところ、宗教的な単語は嫌われていたそうです。

先生によれば、神や仏について自然言語で語ることには無理がある。また、シンタクスが共有されないし、議論が蓄積されないということです。そのため、言語ゲーム数理モデルなどで、存在論や実践論をコンパイル、つまり翻訳することが有益ではないということです。

宗教間の対話を可能にするために、UMLや設計図の書き方を共有することが有益ではないかということでした。そして、存在論と実践論のコンパイルの一例として、次のようなモデルを提示していました。

不利益−実践−超越者の顕現−根本変化−利益

渡辺先生は、社会科学やプログラミングの方法論などを使って、宗教をモデル化することによって、異なった宗教間に共通基盤を作り、対話を可能にしようと考えているようで、なかなか理解がついていかなかったのですが、私は、非常に刺激的で面白いと思いながら拝聴しました。一方、先生の話を聞いていて頭に思い浮かべていたのは、次のような文句です。

さっき社会システム理論とは「普遍理論だと自称するローカルな言語(だと自称する普遍理論・・・)」だと言いました。社会システム理論は、その意味で枢軸ローカルな言語です。にもかかわらず、というより、それゆえにこそ社会システム理論は、英米圏にも適用できる普遍理論です。これに比べりゃ英米圏の理論など、普遍を名乗るだけ「臍が茶を沸かす」。


宮台真司北田暁大著『限界の思考』双風社、2005年、120頁

つまり、渡辺先生の社会学的、あるいはプログラミング、あるいは数学的モデルが、個別の宗教が持つ世界観の上位に位置すると判断する考え方を普遍だと思う人は、予めそれを普遍だと信じている人だけで、そのようなモデルの存在をすでに折り込み済みで自身の世界観を形作っている諸宗教の人々に、社会科学的なモデルが、普遍的なモデルだと受け取られることは、ありえないのではないかと思いました。つまり、本人は普遍だと思っているにもかかわらず、他者からはローカルだと見なされうるという構造は、他の諸宗教と共通しており、その意味では、他の諸宗教のメタレベルにあるモデルだと主張はできないのではないか、できるとしてもそれは自称にしか過ぎないのではないかということです。

個々の宗教の信者にしてみれば、自分たちの世界観こそ、世界を包摂する最上位の説明モデルであり、社会科学的なモデルは、その下部の一部を成すローカルなモデルに過ぎないと言うことになるでしょう。社会科学の説明モデルは、開いた構造を持つが故に、体系性には乏しいでしょうから、むしろモデル全体の包括性や整合性を鑑みれば、数千年にわたり作り上げられてきた伝統宗教のモデルの方が、より体系的で、一貫していると考えることもできるでしょう。

私個人は、先生と同様の、世俗化された合理主義、あるいはプラグマティズムを信仰していますので、社会科学的な宗教のモデル化は、非常に理解がしやすく、認知的不協和が生じず、受け入れやすいものです。そのため、今後の研究の進展も、非常に興味深く注目させていただきたいと思っているのですが、アカデミズムの世界の中での認識論を超えた、実践的な面で、モデル化が何らかの役割を果たせるかについては、私は、難しいのではないかと感じました。


難解ながらも、大変興味深い発表ばかりで、大変刺激になったのですが、一方で、疑問や問題点も多かったと感じました。最も困ったのが、今回のパネルディスカッションの課題や目的が、はっきりしていなかったことです。発表を聞いた限りでは、多分、宗教間対話を可能とするために、異なる宗教が共有できるような普遍言語なりモデルの形成の可能性を探るというものだったように感じました。

ただ、それがはっきりと明示されていたわけではないですし、具体的に、どのような現状認識の下、どのような問題を念頭を置いて、どのような課題に対応しようとしているのかということが、ほとんど全く説明されていなかったので、何に注目して理解すればよいのか分からず、かなり混乱させられました。たとえば、宗教間対話という課題が何度も出されていましたが、いったい現在どのような問題があり、何故対話する必要があるのか全く説明がなかったので、イメージが沸きませんでした。

日本では、宗教間の争いはそれほど大きな問題とは思えませんので、イスラムキリスト教の「文明の衝突」などを念頭に置いていたのかもしれませんが、これにしても、モデルの構築と、問題の解決の間に、どのような関係があるのか上手く想像できません。やはり、そのような基本的な現状認識と課題設定は説明してほしかったと思いました。

また、宗教のモデル化は、古くはウェーバーデュルケームから、色々な研究者によって行われてきて、分厚い研究蓄積があるのではないかと思うのですが、そのような先行研究の名前がほとんど挙がってこなかったことにも、不可解なものを感じました。先行研究にほとんど触れなかったので、先生方は、本当にこれまでの宗教のモデル化の試みの研究史をきちんと調べたのか、過去の研究者のモデルの何が問題で、何処を改良しなければならないかということをきちんと検討したのか、かなり疑問に思わざるを得ませんでした。時間の都合で省いたのかも知れませんが、やはり、最低限の研究史の紹介をして、そのモデルの何が問題で、どのような課題が生じているのかについて説明してほしかったと思いました。

このように、課題設定や研究史がきちんと最初に紹介されなかったので、全体としては、焦点がぼけたパネルディカッションになってしまったと思います。コメンテータの土井裕人先生が、事前に原稿を読んで、パワーポイントを作ってくるなど、十分な準備をしてきたにもかかわらず、理解が十分ではない様子だったり、質問者の方の質問が、今一つ要領を得なかったことを鑑みても、やはり発表の内容が学際的で、多岐に渡ったからだけではなく、課題の説明不足によって、聴衆の理解の困難がより一層増したのではないかと思います。

しかし、個人的には、このような野心に溢れる発表を聞けて、良い刺激を受けることができました。宗教の理論化は、私も興味を持っている課題なので、この日の発表者の方々の研究が進展し、より体系的で精緻な宗教のモデル化が成果として発表されることを、心よりお祈り申し上げております。

*1:はてなに、特定の日だけプライベートモードに指定するという機能があれば、大変便利なのですが。