ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

アメリカファンダメンタリズムと「包囲された伝統」

私が、ドーキンスの『The God Delusion』で良く分からないと思ったのは、ドーキンスの宗教に対する強い危機感です。宗教の力がまだ強固な、世俗化がそれほど進んでいない国ならともかく、現在の日本やヨーロッパ諸国で宗教が社会を揺るがすような危険性を持つかと言えば、全く持たないでしょう。ドイツなどは、政権与党のCDU/CSUキリスト教系の政党ですし、社会に害を与えるどころか、むしろ社会を支える側に立っているわけです。イスラム原理主義との文明の衝突も、日本では全く、ヨーロッパでもそれほど差し迫った問題でもないでしょう。そのため、ドーキンスの危機感は、余りに特殊アメリカ的過ぎて、日本人やヨーロッパ人には理解しがたいところがあるのではないかと思います。

果たしてドーキンスがあれほどの危機感を抱かねばならなくなったアメリカの状況というのは、いかなるものかを知るためには、ファンダメンタリズムの歴史を知る必要があるでしょう。そのため、私は森孝一の『宗教から読む「アメリカ」』(講談社選書メチエ、1996年) を読んでみました。第三章の「アメリカのファンダメンタリズム」(p. 177-229)を要約すると以下のようになります。

先ず、アメリカでファンダメンタリズムが生まれたのは、19世紀末だそうです。ファンダメンタリストの特徴とは、一つ目は聖書無謬説を信奉していること、二つ目は前千年王国説を信奉していることです。つまり、聖書に書いてあることは全て正しく、それ故聖書は文字通り解釈しなければならないと考え、同時にもうすぐキリストが到来し、彼によって千年王国が実現されるので、この世を改善することは無益であり、必要なのはただ悔い改め、キリストの再臨と裁きに備えることだけだと信じていた人のことです。

そのため、ファンダメンタリストは、最初は文献批評学に対抗していました。文献批評学では聖書は人間によって書かれた古代の一文書に過ぎないと考えるので、聖書は神の啓示とは受け取られなくなってしまいます。そのため、ファンダメンタリストは、このような近代的な考え方に抵抗したのです。

1920年代には、アメリカでファンダメンタリズム禁酒法が現れますが、これらは両方とも、新しい文化状況に対し、伝統を守ろうという人々の最後の抵抗だと理解できるそうです。

ファンダメンタリストたちの敵が文献批評学から、進化論に移ったのは第一次世界大戦が契機だったそうです。彼らは、ダーウィンというよりも、ハーバート・スペンサーやウィリアム・サムナーの社会進化思想に敵対していました。というのは、社会進化思想の「適者生存」の論理が、国内では独占企業の自己正当化の哲学となり、国際問題としてはドイツのアーリア民族至上主義に大義を与え、第一次大戦を引き起こしたと考えたからです。また、社会進化思想は、強者の立場を正当化するだけでなく、人間の再生や変革の力も否定するものだと考えました。

また、彼らは、近代思想によって武装したエリートが世界を支配し始めており、普通の民衆である自分たちは、社会から置き去りにされつつあるという危機感を感じていたそうです。そのため、1920年代のアメリファンダメンタリズムは、ポピュリズム運動の一つだったと理解出るそうです。

1920年代に反進化論法制定の動きが出てきたのは、彼らにこのような危機感があったからなのだそうです。

その後ファンダメンタリストは、長い間アメリカ社会の表舞台から消えていたそうです。一方ではアメリカ社会が世俗化したこと、他方では彼らは切迫した終末を信じていたので、政治や社会変革には携わろうとしなかったことがその理由だそうです。

しかし、彼らは、レーガン大統領を生んだ1980年の大統領選挙で、保守大連合の一翼を担い政治の表舞台に一躍登場することになります。彼らがあえて政治の舞台に上がったのは、彼らがアメリカ社会に対して強い危機感を持つようになったからだそうです。彼らは、1960年代、70年代のカウンターカルチャーによって、伝統的なアメリカが否定され、伝統的な価値感や道徳観が崩れ去り、しかも、それに変わる新しい基準がまだ明らかになっていないと感じたそうです。そのため、彼らは、伝統への復古を目指そうとしたそうです。

そのため、新宗教右翼であるファンダメンタリストの主張は、大きく分けて三つだそうです。一つ目は世俗的人間中心主義批判(創造科学を教えるべし)二つ目は伝統的な家庭を守ること(中絶禁止、反同性愛)、三つ目はアメリカ至上主義だそうです(反共主義)。

現在のアメリカにおいてファンダメンタリストはもはや過激な宗教集団ではなく、保守的価値感を持つ政治勢力だと理解できるそうです。まとめると、次のような人ということになるそうです。

保守的な信仰理解を含めて、伝統的なアメリカの価値感を持ちながら、現実のアメリカ社会が自分たちとは違った価値観を持った人々によってコントロールされていることに怒りを覚えて、それにたいして抵抗しようとしている人びと。それが今日のアメリカにおけるファンダメンタリズムであり、新宗教右翼であると理解してよいだろう。(p. 215)

1994年のギャラップ調査機関による世論調査によれば、自分を新宗教右派のメンバーだと思う人は、18%にのぼったそうです。

森氏は、ファンダメンタリズムの章の最後を次のように結んでいます。

新宗教右翼に結集する「草の根」のアメリカ人たちが政治に期待しているものは、物質的な豊かさだけではない。自分たちと自分たちの国家に存在意義をあたえるような、意味の体系や価値感を反映した政治を期待しているのである。

世界をリードする「文明の担い手」、「特別の国家」としての自身が揺らぎはじめたかに思える今日のアメリカにおいて、ワシントンDC の政府が他の「普通の国家」と同じように、プラグマティックに、国内・国外の諸問題にたいして対応すればするほど、自分たちの国家に意味をあたえることができるような価値感を求めようとする新宗教右翼的な運動は、今後もアメリカ社会の底辺で勢力を伸ばしていくだろう。(p. 229)

これが書かれたのは10年前の1996年ですが、その後アメリカで何が起こったかを知っている我々は、この予言が当たったかどうかも既に知っているわけです。

なお、ファンダメンタリズムに留まらないアメリカの保守主義の伸張を考える際に、南山大学社会倫理研究所の2004年度第5回懇話会の中山俊宏氏の講演が、非常に参考になると思います。


宗教復興、あるいはファンダメンタリズムの伸張が、社会の世俗化によって伝統が脅かされ、アノミーが生じるからだという考えは、様々な研究者に共有された考えであるようです。以前ご紹介した世俗化論におけるバーガーの考えもそうですし、アンソニー・ギデンズも同意見です。ギデンズは、『暴走する世界 グローバリゼーションは何をどう変えるのか』ダイヤモンド社、2001年 (原書1999年) 次のようなことを述べています。

次のような定義はいかがであろうか。ファンダメンタリズムとは「包囲された伝統」である、と。すなわち、伝統的なやり方で−儀式的な真理に照らして−保護されてはいるけれども、グローバル化の進む世界では、その存在理由が問われるようになった伝統を意味する。

このように定義すれば、ファンダメンタリズムは信仰や宗教と、なんのかかわりもなくなる。その存亡は、信条の正当性をいかにして擁護し説得するかにかかってくる。(p. 102)

ギデンズの考えが正しければ、ドーキンスは、戦う相手を間違えていると言えます。「包囲された伝統」は、アメリカ以外では必ずしも狭義での宗教という形態を取らず、ナショナリズムという世俗的な形態を取ることも多いように思います。たとえば、日本では「新しい教科書を作る会」周辺のナショナリズム、ヨーロッパではドイツのネオナチやフランスの国民戦線など外国人排斥を主張する極右勢力などが、「包囲された伝統」だと言えるでしょう。アメリカにおけるファンダメンタリズムに相当する動きが、それ以外の国では世俗的なかたちを取ることを考えれば、問題なのは狭義の「神」や「宗教」を信じることではないと考えざるを得ないでしょう。

いずれにせよ、ファンダメンタリズムについて考える際に、ギデンズの次のような問いかけは、頭に入れておく必要があるかと思います。

ファンダメンタリズムは、地球規模の近代化に真っ向から刃向かうわけではなく、それへの疑義を呈するにとどまる。彼らの最も基本的な疑問は、次の通りである。聖なるものが存在しない世界に、私たちは住まうことができるのか、と。

結論だけいわせてもらえれば、私は「できない」と考える。普遍的な価値の存在が、寛容と話し合いを実らせるために不可欠なことを、コスモポリタン主義者−私自身がその一人なのだが−はもっと意識すべきである。(p. 104)


ギデンズは「聖なるもの」、あるいは普遍的な価値として民主主義を提示します。ドーキンスなら、科学を提示するのでしょう。他の人ならば、別のものを提示するかもしれません。では、その聖なるものを選択する際の基準は何でしょうか。また、誰かが、何らかの基準によって、何らかの聖なるものを決定し、ある一定の人々においてそれが受け入れられたとして、社会の中にその決定を受け入れない人が出た場合、果たしてどうすれば良いでしょうか。思想・信仰の自由がある近代国家では、一つの「聖なるもの」を国民全員に強制することは、決して許されません。あるいは、別の国家で、別の聖なるものが信仰されている場合、他の国家は、それに対して干渉することは基本的に許されないはずです。

多様な人々が暮らす国民国家、あるいはグローバリズムが進む社会で、ある社会の成員全てが同じ聖なるものを、個々の自由意志に基づく決定として共有することは、現実的には不可能だと思います。となると、複数の聖なるものが一つの社会に並立する中で、社会秩序をどのように保っていけば良いかを考えねばならないのでしょうが、それは、基本的に政治制度の整備や、警察などによる公安活動の管轄になるのかもしれません。