ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

貧者の尊厳

少し前に話題になった赤木智弘さんの「『丸山眞男』をひっぱたきたい」と「続『丸山眞男』を ひっぱたきたい」」がネットで公開されていました。

この文章は、社会的尊厳を得られない者が、社会的尊厳を得るためには、日本人であるという属性だけで尊厳と社会的承認が得られる右派が力を持った方が合理的であり、社会的エリートに対してより優位な立場に立ち、より多くの尊厳を得るためには、戦争という流動的な状況の方がより合理的であることを説明したものです。つまり、現在の社会的弱者が、他人からの承認を得たい、尊厳を回復したいと思った場合、戦争を望むインセンティブが発生するので、そのようなインセンティブが発生しないような社会を作った方が良いですよと勧めている文章です。

基本的に、現在の社会の問題を強調するための極論なのですが、私がこの文章の中で面白いと思ったのは、ここで問題になっているのが、物質的条件そのものではなく、個人の尊厳だということでした。つまり、赤木さんの中では、貧困、あるいは経済的不安定さという物質的条件よりも、個人の尊厳という内面的条件がより切実に要求されていることです。

 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。

続『丸山眞男』を ひっぱたきたい」


何故、私がこのことに興味を覚えたかというと、これは、私の研究に大きく関わっているかも知れない問題だからです。私が、現在進めているのは、ミュンスター再洗礼派支持者の社会階層分析なのですが、ミュンスター再洗礼派には、家を持たない貧民が多いことがこれまでに分かっています。ただ、何故家を持たない貧民が再洗礼派になったかについては、まだ良く分かっていません。

これは、史料が少なすぎるため、さらに変数が多すぎて、どの変数がどのくらい個々人の宗派選択と関係しているかが分からないからです。しかし何より、先ずどれくらいの数の変数が存在するのかを想定しなくてはなりません。その変数の一つとして、私が考えているのは、貧者の尊厳、社会的承認に対する欲求です。

中近世の社会では、名誉は非常に重要なもので、自らの名誉を守ることは個人の義務でした。しかし、私の乏しい知識の範囲ではありますが、名誉の問題を扱う際には、主に貴族や上流市民、ギルド員などが対象になっているように思います。しかし、貧者にとっても、名誉は重要なものだったことには変わりがないのではないかと思います。

ヨーロッパでは、中世末から近世にかけて、貧者に対する考え方が大きく変わりました。中世では貧者は、金持ちが喜捨をし、功徳を積むために必要な存在として社会の中で位置づけられていました。つまり、彼らは、必ずしも蔑まれるだけの存在ではありませんでした。しかし、中世末に貧者が激増し、浮浪者や乞食が都市にあふれるようになると、貧者を良い貧者と悪い貧者に分ける考え方が一般化していきます。つまり、病人や老人など働けず困窮している貧者は可哀想なので福祉の対象になるが、働けるのに働かないで怠けている貧者はろくでもない奴らなので、無理矢理にでも働かせないとならないと考えられるようになりました。こうして、貧困であることは、倫理的な罪になってしまったわけです。

この時、当然貧者を見る周囲の目は厳しくなり、貧者が名誉や尊厳を奪われたことは想像に難くありません。しかし、おそらく史料的な問題からでしょうが、貧者の内面が貧困研究で扱われることは余りないように思います。ただやはり、貧者の行動や態度決定を理解するために、彼らの内面を理解することは非常に重要であるように思います。特に、名誉を重んずることが人々の行動規範となっていた時代ですから、彼らが自らの名誉の保持をどう考えていたかは、彼らの行動を決定する重要な一要因だったのではないかとも思われます。

そのため、貧者が自己の名誉をどう捉えていたのか、名誉や尊厳を回復したいという願望はあったのかどうか、あったとしたらどれくらい行動に影響を与えていたのかなど、検討すべきことは数多いだろうと思います。私感では、おそらく貧者が自分の尊厳を最大化しようと思った場合、再洗礼派になることは、カトリックルター派になるよりも合理的な選択であったと言えるのではないかと思っています。

実際には、史料的な問題で極めて難しいのですが、貧者の内面をどのように再構成するかは、中期的に見た場合、自分にとって重要なテーマだと思っています。


ちなみに、現代日本のホームレスの方々の内面の一端は、「露宿」という雑誌で垣間見ることが出来ます。