ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

博士論文紹介「1525-1534年ミュンスター宗教改革・再洗礼派運動 〜都市社会運動の総体把握の試み〜」


博士論文紹介「1525-1534年ミュンスター宗教改革・再洗礼派運動 〜都市社会運動の総体把握の試み〜」


私は昨年度東北大学大学院に博士論文を提出し、博士号をいただいたのですが、この博士論文について、少し紹介させていただきたいと思います。


課題

この論文で私が扱ったのは、論文のタイトル通り、ミュンスター宗教改革と再洗礼派運動についてです。では、この論文は、他の宗教改革や再洗礼派運動研究とどこが違うのかと言えば、この論文が、運動の全体像を把握しようとしていることになります。

1960年代以降発達した宗教改革研究では、都市共同体に注目が集まりました。共同体の宗教的、さらには世俗的な自治権を拡大することが、都市で宗教改革を進めようとした市民たちの動機だったというのです。この考え方は、後にブリックレによって農村共同体にも拡張されました。

しかし、このような研究には大きな問題がありました。それは、都市共同体に属する市民ばかりに注目が集まり、市民権を持たない貧しい男性や女性のことが著しく軽視されてきたことです。都市の人口の大部分は市民権を持っておらず、彼らもまた宗教改革運動に参加していたことを考えれば、これは大問題です。

そのため私は、都市には様々な人々が住んでおり、彼らは各々色々な動機や利害に基づいて宗教改革運動に参加していたと仮定し、そういった多様な人々や集団の個々の動きが、どのように相互作用して、ミュンスターという都市で宗教改革運動、そしてそこから派生した再洗礼派運動を進展させていったのかを明らかにしようとしました。


方法

これを可能にするために、長い間粘り強く考えて、何とか考え出したのが、以下のような方法です。

先ず、ミュンスターで起こった1525年の騒擾、1530-33年の宗教改革運動、1533-34年の宗派分裂の各社会運動の経過をそれぞれ見ていきました。ここは、通常の歴史学の論文っぽい感じで書いてあります。

しかし、このような経過を追った後が、この論文の本番です。つまり、この三つの社会運動で、様々な集団や階層がどんな主張をして、どんな行動をしていたのかを、全て個別に見ていったのです。個別に主張と行動を分析したのは、都市制度上の集団である市参事会、全ギルド会議、ゲマインハイト、ギルド、市区、政治的社会階層である門閥市民、二流の名望家、市民、アインヴォーナー男性、女性と、全部で十種類です。

そして、これらの分析結果を踏まえて、彼らのうち運動を支持していたのはどんな人々だったか、人々はどんな動機で運動に参加したのか、彼らの動きがいかに相互作用して運動が進んでいったのかをそれぞれ分析することによって運動の全体像を明らかにしようと試みました。

その際私は、市参事会、全ギルド会議などの集団が行う交渉など、都市の制度に基づく領域を「公式な領域」、そこで結ばれる協定や誓約などの合意を「形式的合意」、住民の私的な活動など都市の制度に基づかない領域を「非公式な領域」、そこで私的に結ばれる住民の間の合意を「実質的合意」と概念上区分しました。何故なら、このような区分を行うことで、都市の制度上の集団や市民たちの活動だけでなく、都市住民の私的な活動や貧民や女性といった都市社会で周辺的な地位にあった者たちの活動も分析対象にすることができるからです。

そして、三つの社会運動についてそれぞれ分析した後、最後にこれらの社会運動を全てひっくるめて分析し、ミュンスターの社会運動の全体像を明らかにしようしたのが私の博士論文です。


結果

その分析過程はかなりややこしくて、紹介しきれないので、このような分析で明らかになったことをまとめてみますと、以下の五点ほどが挙げられます。

一つ目は、非公式な領域で成り立っていた実質的合意が、公式な領域での形式的合意が効力を持つための前提条件になっていたことです。たとえ、市参事会や全ギルド会議といった統治機関の間で形式的合意が成り立っていたとしても、住民が従う気がなければ、合意内容の実行は不可能でした。

二つ目は、非公式な領域で一部の住民によって結ばれた実質的合意を、都市全体で効力を持つ公式な領域での形式的合意にするために、ギルドと全ギルド会議が仲介役として決定的に重要な役割を果たしていたことです。彼らは住民の要求を市参事会に対し伝え、要求を受け入れさせる役割を果たしていました。

三つ目は、市内で実質的合意が成り立つためには、その合意に反対する住民の沈黙が不可欠だったことです。多様な人々が暮らす都市内部で全員の意見や利害が一致することはないし、市参事会には少数派の反対意見を抑圧する力もなかったため、反対派が不満を表明せず、抗議を行わないことが市内で実質的合意が成り立つ際に必要でした。

四つ目は、小規模な集団や個人による活動が、宗教改革の進展に大きな影響を及ぼすこととがあったことです。宗教改革運動の進展は、多様な都市住民の多様な要求や行動が相互に影響し合いながら進展しており、場合によっては小規模な集団や個人による小規模な行動が、運動の進展を決定的に変えることもありました。

五つ目は、都市住民は、実際には都市全体の利益より自分の利益を重視して行動していたと思われますが、常に公共の福利に配慮していると自分たちの主張や要求を正当化していたことです。その意味で、公共の福利は、たとえ内面化はされていなくても、都市住民全てに共有されている理念だったと言えます。


研究の意義と今後の課題

以上のようなこの博士論文の研究史上の意義は、先ず都市内部の様々な集団や階層が、宗教改革に対して取った態度やその動機、そして運動の進展に与えた影響を個別に検討し、さらにそれら全ての行動がいかに相互作用していたかを明らかにしたことにあるでしょう。

さらに、ゲマインデや市民などの公式な領域での活動に注目してきた既存の宗教改革運動研究に対し、非公式な領域での活動、貧困男性や女性、小集団や個人の小規模な活動もまた、都市宗教改革の進行に決定的な影響を与えていたと実証したことになると思います。

史料上の制約があるので、私の博士論文でも、非公式な領域での活動を、十分に明らかにできたわけではありません。しかし、公式な領域での活動が、非公式な領域での活動と不可分であるため、非公式な領域での活動をいかに明らかにするについて、歴史学者は新しい方法を考え出す必要があるでしょう。私も、そのような方法を見つけ出すために、今後も研究者として研鑽を積んでいきたいと思っています。


参考:Toggeterまとめ 「永本哲也 博士論文『1525-1534年ミュンスター宗教改革・再洗礼派運動 〜都市社会運動の総体把握の試み〜』紹介