ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

多宗派併存都市ノイヴィートでの調査

私は2月26日から3月10日までドイツ西部ライン川沿いの都市ノイヴィートで史料調査を行っていました。今回の調査の目的は、近世ノイヴィートに関する史資料の閲覧・入手です。ノイヴィートは人口6万5千人の小都市で、はじめて都市名を聞いたという人も多いかと思います。

では、何故私がノイヴィートに調査に来たのかというと、17〜18世紀に異なった宗派に属する住民の共生や争いについて知りたいからです。1653年に作られた新造都市ノイヴィートで支配的な教会は改革派でしたが、建造間もない時期からルター派カトリックユダヤ人や再洗礼派の一派メノー派も居住していました。

18世紀半ばにはさらに霊感派とヘルンフート兄弟団も市内に移住してきたので、市内には7つの宗教集団が併存することになりました。そのため、近世において、異なった信仰をもつ人々たちがどのように関係を結んでいたのかを知るには格好の対象だと思い、関心を持ちました。

しかし、単に興味を持つだけでなく、本格的に調査し始めたのには、いくつかの理由があります。一番大きな理由は、共編著『旅する教会 再洗礼派と宗教改革』をはじめとした自分の原稿で書きながら色々と気になることがあったためです。

元々私がノイヴィートのことを知ったのは、新教出版社の雑誌『福音と世界』で行った連載「旅する教会」のために、現代までの再洗礼派の歴史を調べたことがきっかけでした。その時近世にメノー派が住んでいた都市について少し調べたのですが、その中にノイヴィートも含まれていました。

結局紙幅の問題で連載では扱えませんでしたが、2017年に単行本化した『旅する教会 再洗礼派と宗教改革』では、ノイヴィートを含めメノー派が住んでいた神聖ローマ帝国の多宗派併存都市を紹介することができました。

ただし、調査や執筆の時間も限られ、本が扱う範囲も広かったので、十分な調査ができず残念に思っていました。帝国の都市の宗派状況については少ししか触れられなかったし、もっと掘り下げてきちんと調べたいと思っていました。

帝国の多宗派併存都市を調べたいという思いは、その後『福音と世界』2017年3月号で、やはり18世紀までの再洗礼派を取り巻く状況を描いた「曖昧になる「正統」と「異端」の境界」という原稿を書いたことで、より大きくなりました。

さらに、17〜18世紀の宗派状況を含めた「長期の宗教改革」研究を把握することは、これから自分が宗教改革研究者として研究を続けていくためにも、必要不可欠だと思ったことも理由として挙げられます。

『UP』での連載「広がる宗教改革」第二回で鍵和田賢さんが宗教改革研究の対象が、近年18世紀あるいはその後にまで広がっていることを紹介していましたが、この「長期の宗教改革」は、現在急激に研究が進んでいる分野で、私も何とか食らいつかねばと思っています。

また、大学の教員としても、17〜18世紀をもっと本格的に調べたいと思っていました。私は大学でキリスト教の通史を教えているのですが、やはり近世から近代にかけて、宗教的寛容がいかに進み、政教分離が実現したかを、近年の研究成果を取り入れながら授業できるようになる必要を感じています。

しかし、研究・教育上の関心だけでなく、現代の世界が抱える問題に近世と共通する部分があると感じたこともこのテーマに着手した大きな理由だったかもしれません。

私は、『Ministry』2017年5月号の「異質な人々とどうやって生きていくのか?−宗教改革後のヨーロッパと現代」という原稿で、近世の西欧でも現代の世界でも異質な人々が混じりあう状況にうまく対応できていない点では共通しているのではないかと書きましたが、このような状況を前にもやもやし続けています。

ということで昨年からノイヴィートについて本格的に調査を始め、上廣倫理財団様の研究助成に採択していただいたため、今回ノイヴィートで現地調査を行っています。

今回の調査では、特に宗派間の争いとその解決方法に注目しています。ノイヴィートは近世に宗教的寛容が実現した都市として扱われることが多いのですが、実際には様々な理由で宗派間の争いも行われていました。

しかし、近世ノイヴィートの宗教的寛容を扱う研究自体少なく、争いをきちんと分析した研究はまだ出ていないので、試しにやってみようと思いました。ただ、調査を進めてきて、ノイヴィートに関する研究が少ない理由は何となく分かってきました。一番大きな理由は、おそらく史料へのアクセスです。

近世ノイヴィートの重要史料はほとんどヴィート侯文書館Fürstlich Wiedische Archivにあります。現在利用には予約が必要、基本的に毎週水曜しか開いておらず複写もできません。もちろん利用させていただけるだけありがたいのですが、公立の文書館と比べ、利用状況が厳しいのは確かです。
https://www.landeshauptarchiv.de/service/archive-im-suedwesten/?no_cache=1&tx_lhaarchivportal2010_pi1%5BshowList%5D=1&tx_lhaarchivportal2010_pi1%5BarchiveId%5D=9

また、各宗教団体、牧師や司祭が持っている史料を使った研究もありますが、こちらは部外者にとって利用するハードルがより一層高いです。

さらに、ノイヴィートに関する重要な史料は、史料集として刊行されておらず、様々な文献で断片的に活字になっているだけです。大半の史料は文書館で手書き文書を読むしかないので、調査を進めるのはかなり大変です。

ただし、ヴィート侯文書館の史料を主に利用してボン大学で博論を出したRoland Schlüterが著書Calvinismus am Mittelrhein, 2010の序文で述べているように、文書館の文書の大半はまだ利用されておらず、面白い研究をする余地が大きいのは魅力です。

ヴィート侯文書館の所蔵資料のカタログは、1911年に刊行されているので、だいたいの所蔵品は把握することができます。文書館には、手書きのカタログもあります。文書館員の方も、非常に親切で、いろいろと調査を助けてくれます。
http://opac.regesta-imperii.de/lang_de/anzeige.php?sachtitelwerk=F%C3%BCrstlich+Wiedisches+Archiv+zu+Neuwied.+Urkundenregesten+und+Akteninventar&pk=8227

ちなみに私の今回の調査で主に調べているのは、ヴィート伯の書記局長Christian Hiskias Heinrich Fischerが1777年に書いたノイヴィートの宗教状況に関する手書きの著作と、1751から53年にかけて起こった武器を持った市民行列をめぐる市当局と霊感派の争いに関する史料です。

先週水曜に文書館に行ったときには、事前に見たい史料を連絡していたので、文書館員の方がすでにフィッシャーの著作を準備してくださっていました。

しかし、市民行列に関する史料は、このテーマを扱った研究Fritz Voß, Bürgerwehr in Neuwied, 1936 に史料の出典がきちんと書かれていなかったため、文書館員の方も見つけられていません。これからの調査で史料のありかを探すことになります。

ノイヴィートの法的な発展を扱ったHans Wilhelm Stupp, Die rechtsgeschichtliche Entwicklung der Stadt Neuwied, 1959, 19f., 41f. でも、市民行列をめぐる争いを扱っていますが、やはりフォスの研究を参照しているだけなので出典は分かりません。

しかし、今回の史料調査の結果、FWA 65/11/13 という1731年から51年までの霊感派に関する史料を綴じた冊子に、この争いに関する手紙が含まれていました。時間がなくて全部確認できませんでしたが、1751年の霊感派や都市シュルトハイスWeberの手紙がありました。フィッシャーの著作の中にも、この件についての記述がありました。

それ以外にも宗派間の争いは、他宗派の信徒への中傷、埋葬、礼拝への参加、教会や学校の建造など、いろいろな理由で起こっているので、こちらも並行して調べています。

ノイヴィートやボンで、様々な文献やパンフレットも発見・入手できたので、刊行された研究や史料についてはかなりの程度収集が進みました。

今回は研究助成をいただいて調査・研究を行っているので、なるべくその成果を知っていただけるように、ノイヴィートや近世の宗派状況に関する情報や文献、史料について、Twitter やブログなどで紹介していこうと思っています。もちろん、最終的には学術論文としてまとめるつもりです。