ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

砂上の楼閣の建設は避けたい

先日のコメント覧で書いたことを、Siolli さんに取り上げていただきました。これについては、コメント覧とは言え、少々筆が滑ったところがあるので、少し補足したいと思います。

宗教改革で、ドイツあるいは神聖ローマ帝国という単位で考えることが非常に難しいのは、主に以下の二つの理由によると思います。一つ目は、神聖ローマ帝国が、事実上無数の領邦君主の領土の集積体になっていたことです。帝国議会への出席、トルコ税などの納税義務はあったにせよ、各諸侯は事実上自分の領土の統治を自由に行っていました。*1特に、宗教改革が始まると、カトリック宗教改革派の諸侯が対立し、帝国議会もなかなか機能しなくなりました。

二つ目は、宗教改革が実際に導入されるときには、都市などの共同体、あるいは領邦が単位となっていたことです。ベルント・メラーの『帝国都市と宗教改革』で、宗教改革の理念と都市における共同体主義の親和性が高かったため、主に自治権を持っていた帝国都市で、宗教改革が成功を収めたと指摘されて以来、都市毎の個別研究が必要だという考えが広まりました。そのため、日本でも、『宗教改革と都市』という論文集が出版されています。

その後、北ドイツの領邦都市でも、宗教改革導入の際に、帝国都市と同様に共同体主義が大きな役割を果たしたこと、あるいは市参事会や領邦君主もまた、積極的に宗教改革を導入した例もあるなど、宗教改革の導入のされ方には多様性があり、個別の都市や領邦固有の条件によって様々なかたちをとることが明らかになってきました。そのため、個々の共同体や領邦の個々の事情を考慮せざるを得ず、一般的なモデルを作ることは、不可能というのは言い過ぎでしたが、困難だと言わざるを得ないと思います。

再洗礼派研究は、また条件が別なのですが、私がドイツや神聖ローマ帝国を単位にして考えるのは難しいと言った場合には、私が従事している宗教改革や再洗礼派研究固有の条件から来るもので、かならずしもドイツ史一般について当てはまるとは限らないと言うことは、念頭に置いていただければと思います。

もちろん、複雑な事象の一般化をしないかぎり、我々はその知識を利用することが出来ないので、それは行わなければなりませんが、一方で、実際に研究を進めるときには、地方史的な個別研究を積み重ねるより他に方法はありません。このあたりのバランスを取るのは、難しいことだと思います。

しかし、私のような学生の言葉より、一線の研究者の方の言葉の方が重みがあると思うので、野々瀬浩司先生の『ドイツ農民戦争と宗教改革』のあとがきから、引用させていただきます。私の言いたいことは、これに尽きます。

農民戦争という巨大な歴史的対象を考察する際には、個々の運動の地域的特徴を超えた総合的な理論構築への道は、ブリックレ説が登場して以来非常に困難な状況にあり、より詳細な地方史レベルの実証研究の蓄積を痛切に感じ、これまで私なりに地道に史料分析に従事してきたつもりである。したがって、直接的に一次史料によって得られた歴史的事実をあまり多くは提示することなく、他者の諸学説を安易に転用して繋ぎあわせたような砂上の楼閣の建設は−例えば農奴制問題を全ヨーロッパ的視野で論じるとか、各国の農民蜂起を地域的特殊性を度外視して比較検討するというやり方は−現在の私自身にとってはそれほど得策ではないと考えてきた。普遍的理論法則を打ち立てる前に、歴史事象における個性や特殊性を浮かび上がらせることを主眼に置いたのである。


野々瀬浩司『ドイツ農民戦争と宗教改革慶應義塾大学出版、2000年、341ページ。

*1:実際には宗教改革時代には、領邦君主は、聖職者や騎士身分、諸都市などの等族、あるいは農村共同体に対し、十分な支配権を確立していませんでした。領邦国家が確立するのは、もう少し後の時代の話になります。