ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

「純」音楽の作曲家はお金にならないらしい

作曲家の吉松隆さんのサイトで、芸術音楽の作曲家の収入についての話が語られていました。

予想できないことはありませんが、かなり衝撃的なくらいお金にならないようなので、余りにも身も蓋もない話の連続に唖然とさせられました。

とりあえず、歴史的に見ても、芸術音楽の作曲家は、大変貧乏だったそうです。

♪なるほど。確かに「貧乏」なイメージのベートーヴェンシューベルトに対して、ロッシーニとか、ヴェルディとか、プッチーニとかのオペラ作曲家はセレブな印象がありますものね。

 つまり、だれも好き好んで「純音楽の作曲家」になろうとしたわけではないんですよ。オペラを当てられなかったから仕方なく、反抗心と自嘲を込めて自分の書いている音楽を「純(芸術)音楽」だと言い張るようになった、というのが正しいでしょうね。そう考えると、現代における純音楽の作曲家が、音楽だけでは食べられずに、ピアノの先生や音大の教授や商業音楽の作曲や、原稿書きや評論などの様々なアルバイトをやって細々生きているのは、まあ、純音楽の呪いといこともあるでしょうけど(笑)、当然すぎるほど当然と言うことになります。

(中略)

 なにしろ、クラシック音楽界というのは、数多くの天才たちを不遇や貧乏のまま殺してきた怖い世界なんですから。音楽室の壁に肖像画が並ぶ大作曲家の中で、ちゃんと収入を得て財をなした人って誰か思い浮かびますか?。オペラ作曲家以外は全員討ち死にですよ(笑)。このジャンルで作曲をやろうと考えるなら、まず、それを認識すべきですね。


さて、オーケストラの演奏会で、自分の作った曲を演奏してもらえるようになったとしても、ことはそう簡単ではないようです。

 そうです。作曲者と出版社が50%ずつ。歌のように作詞家と作曲家がいる場合は、さらにその半分になります。そして、ここからさらに、その「作品使用料」を徴収する際の「手数料」というのを引かれるんですよね。現在の日本音楽著作権協会JASRAC)で29%だったかな。まあ、確かに演奏されたり放送されたりするたびに自分でお金を取りに行くわけには行かないですから、それを代行してくれるのに手数料が発生するのは仕方ないんですけど。
 そして最後に、国から源泉徴収税として10%引かれる。ちなみに、以上を単純に合計しますと、50%+29%+10%で…89%。これに消費税5%を加えますと、あくまでも単純計算としてですが、残りはわずか6%!。その結果が2,600円という恐怖の金額になるわけです(笑)


では、著作権収入で生きていけないとすれば、作曲家の方々は、どのように生きていくのでしょうか。

 これは、皮肉と言うしかないんですが、先にお話した著作権のシステムのおかげで、クラシック系音楽程度のマーケットでは、聴衆が聴いてくれる、演奏家が指示してくれる、という作品を書いても経済的にどうしようもないことになってしまった。つまり「音楽性」だけで生き残るのは不可能であると言うことになってしまったんです。では、どうするか?と言うと、互助会的な(むかしのフリーメーソンみたいな)組織を作って、架空の「権威」を作るしかない。現代音楽教を信じる秘密結社みたいなものですね。
 まず、「つまらないから売れない」というのを逆手にとって、「つまらないのではない。高度で難解なので専門家にしか分からないのだ」という詭弁を繰り出す。そして、「一般の人には無理でしょうから、作曲の専門家が審査し評価します」という閉じられた世界を作ってしまい、その中で「コンクール」や「委嘱」や「賞」をお互いにやり取りするわけです。それによって、現代音楽教に入信していれば、その世界で生きられるという構造を生み出したわけですね。


やはり、人間の社会的成功のために、政治力は不可欠のようです。

もちろん、その互助会に入れなければ、かなり経済的には厳しくなるようですが、吉松さんは、なんとか25年間活動を続けてこられて、なんとか生活してこられたそうです。

♪なんだか細々と砂金を浚っているような感じですが、現代で純音楽の作曲家として収入を得て生きてゆくことも、まるっきり不可能というわけではなさそうですね。
 そうとも言えますし、そうでないとも言えますし、微妙なところです。ただ、貧乏に耐えて25年もやっていれば、作曲に関わる収入(委嘱料と作品使用料と印税)だけでなんとか生きて行けるようになる可能性はゼロではない。私がその実例ですからね。もっとも、「25年もやってその程度か!」と思いっきり失望されそうですが(笑)。

しかし、経済的には厳しくても、音楽をやってきたことを幸運だと思ってらっしゃるそうです。

いや。確かに、失望が大きく希望の小さい世界ですけど、音楽を生み出す喜びはすべてを超越します。だから、世界に失望することはあっても、音楽に絶望することは決してない。私たちは別に、生きるために音楽をやっているのではない。音楽をやるために生きているんですから。
 それに、音楽をやりたかったのに若くして亡くなったり、戦争や災害のような絶望的な時代に生まれ合わせてしまって志を果たせなかった人たちのことを考えれば、交響曲を書いても演奏してくれないとかお金にならない…なんて、悩むことでも何でもありません。好きな音楽を書いてなおかつ生きていられるというのは、それだけで限りない幸運に恵まれたということですからね。


うーん、カッコイイですね。私も、早くこのような境地にいたりたいものです。

私も、この間、同僚と話して、社会的に成功するために、評価される論文を書かないといけないのではないか、そのためには職を得るまでは自分のやりたいテーマを曲げることも必要なのではないかという話が出てきたました。私としては、そのような観点を無視は出来ないが、社会的・経済的に成功したければ、他に道が幾らでもあったわけだし、この道に来た以上、社会的・経済的成功というのは、求めても仕方がないのではないか、せっかくだから自分のやりたい放題やった方が、後悔が少ないのではないかと思っています。

とは言うものの、やはり生きるために先立つものは必要であり、それを得るためには、他の方々の興味を引くもの、面白いと思うもの、お金を出しても良いと思うことを、やらなければなりません。個人的には、自分がやっていることと、社会的要請が合致しているかどうかに関しては、未だ不明ですので、その辺の摺り合わせは、せねばらないとも思っています。しかし、結局は、やりたい放題やるんだろうなとは思います。