ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

アイオーンとしてのバロック

昔は、古本屋に行くのが何よりの楽しみで、とりとめもなく本屋を渡り歩き、脈絡もなく本を啄んでいたものでしたが、いつしか古本屋に行くのは楽しいことではなくなってしまいました。自分の研究で、山のように読ま「なければならない」文献が積み上げられ、いつしか、自分の研究とは関係ない本を読む時間的、精神的余裕が消え去ったからです。古本屋めぐりは、無為の極致のようなもので、そこで買う本を読むことも、全くの無為な行為だと言えるでしょう。しかし、無為だったから楽しかったのであり、研究で使う重要文献を、インターネットで検索し、通販で購入するという大変合理的で、機能主義的に言えば大変素晴らしい行為は、楽しくも何ともないというのは偽らざる気持ちではあります。

さて、本日は古本市を訪問し、沢山の面白そうな本を見て回ったのですが、自分はたとえ買ったとしても、これらの本を読むことはできないのだと悲しくなってきました。それでも、本日は、何とか研究の合間に読もうとエウヘーニオ・ドールスの不朽の名著『バロック論』(美術出版社、1974年、第3版)を購入しました。この本は、箱入りで、表紙が少々毛のついた布地で覆われ、灰色の表紙に、金字で孔雀のような文様が刻印されているという、なかなか凝った装丁の一冊です。このような丁寧な作りの本を手に取ることは、それだけで心躍るものです。

さて、中味を少々読んでみると、大変文学的な表現によって書かれており、文体そのものが美学的であるように思いました。日頃自分が読んだり、書いたりしている無味乾燥とした文章とは、完全に異質の文体だと思いました。ドールスは、バロックを古典主義と対置し、歴史の中に繰り返し登場する常数、すなわちアイオーンであると見なしました。そのため、ドールスにとって、バロックとは17世紀から18世紀にかけて流行した特定の美術様式であると同時に、人間の歴史の中で繰り返し登場する普遍的な常数の一つだと考えました。古典主義とバロックは互いに反発し合いながら、歴史の過程で姿を変えつつ、何度も姿を表すのです。

この本を読んだところで、全くの無為なのですが、その無為なことは、数十年後の自分にとっては無為ではないかも知れないからこそ、無為に本を読むことは、これほど楽しいものなのでしょう。