ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

L. フェーブル『フランス・ルネサンスの文明』

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の基本像 (1981年) (歴史学叢書)

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の基本像 (1981年) (歴史学叢書)

アナール派の大物歴史家の書いたフランス・ルネサンスについての本ですが、人々の生活、知、美、聖なるものの四つのテーマが扱われています。当時の人々の生活や感じ方はこんな感じだったのかということが実感できるような記述が素晴らしいです。この本を読んでいると、石で作られた宮殿が冬には冷え冷えと凍てつくような寒さだったことや、同じベッドに何人もがいっしょに寝たことや、暖炉やランプの火しかない暗い部屋の様子が、ありありと想像できます。これは、記述が非常に具体的だからで、情報のディテールのもつ魅力を感じさせてくれます。

また、この本では、近世の人々が、いかにあちこちと移動して生活していたかが描かれます。王は宮廷と共に果てしない旅を続け、学生も商人も美術家も聖職者も、街から街へと移動して生きていたのです。また、家族と死に別れることも多いので、夫も妻も配偶者が死ねばパートナーをすぐに変え、子供は親に何かあれば孤児になったのです。

近世社会は、現代の我々の社会のように、安全で確固とした社会ではないので、人は飢えや病ですぐに死に、経済変動で社会的に没落したり、一家が離散したりしていたのです*1。我々はついつい前近代の社会を変化の少ない静的な社会だと思いこんでしまうものですが、実際には近世社会は現代より危険で不安定であり、人々の生活は山あり谷ありで、普通に生活するだけで波瀾万丈だったとも言えるのでしょう。

また、フェーブルは、当時の人々の宗教が、儀礼的だったことについてこんな風に書いています。

宗教的行事・慣習や規則というものが人間の生活においてこれほど大きな位置を占め、人間の誕生から、現世のあらゆる行為は−−たとえば遺言を書くとか博士の学位試験を受けるとか、現代のわれわれには宗教ともっとも無縁に思われる行為さえも−−宗教の一貫した規制の下におかれ、宗教的意味を与えられ、いわば十字架の印のもとに行われているのだ。人びとの労働や休息、食物や生活様式に関するすべてが、その細部に至るまで宗教によって規制され、これと呼応して教会や修道院の鐘は、祈りや聖務の時を告げることにより、時計に代わって日常生活にリズムを与えているのだ。祭りや祝辞や危難の折には、教区の中心にある教会があらゆる信徒の集合の場となり、日曜や祝日ごとに人びとは階層別に全員ここに勢揃いして顔を合わす。聖職者は内陣に、領主は犬や夫人やお子様たちを引き連れて身廊の最上席に、村役人たちは野暮臭く威儀を正してその後に続き、さらに有力な地主たちや、その背後からはごったまぜになって下男下女や子供たちなどしがない民衆が詰めかける。家畜どもまで村人同様わがもの顔に入り込む・・・

要するに、教会とか宗教とかが一つの社会に対してこれほど強い、またこれほど多面的な支配力を持っているというのに、「そんなものは慣習に過ぎなかった」などと鼻先で軽くあしらうのでは、これはもう冗談としかいえないだろう。いっそ簡単明瞭にこう言ってしまおうではないか、「生活全体が慣習によってできていたのだ」と。そしてこう言うだけではなく、さらに見究めようではないか。

(107-108頁)


この本を読むと、豊富な細部描写によって、当時生きていた人々は、今の我々とは全く異なった環境で、異なった心性を持って生きていたのだと、生々しく感じることができます。フェーブルは冒頭で、こんなことを書いています。

「人間の本質は時空を超えて同一である」。私も知っている。昔からの繰り返し文句は百も承知である。が、しかし、それは単なる公理にすぎないし、敢えてつけ加えるならば、歴史家にとって何らの効能を持たぬ公理に過ぎない。

歴史家にとっては、人間一般が問題ではなく、さまざまな人間が問題となる。その人間たち個々の独自性、識別の手掛かりとなる特徴、彼らをわれわれと区別する一切のものを、歴史家は努力の限りを尽くして補足しようと目指すのである。実際彼らは、われわれと同じような仕方で生きていたわけではないし、感じていたわけでも、行動していたわけでもないのだ。

(4-5頁)

フェーブルは、この本の中で、見事に我々とは「同じような仕方で生きていたわけでもなく、感じていたわけでもなく、行動していたわけでもない」人々について描き出しています。そのため、この本は小著ながら、歴史家たるものこのような想像力をもって過去に対峙すべしと思わせてくれる、貴重な一冊になっていると思います。

*1:これは、「sociologically」で紹介されていたように、日本もいっしょです。