ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ヴァーレンドルフの行列

8月15日は、Maria Himmerfahrt マリア昇天祭でした。この日は、ミュンスター近郊の小都市Warendorf で、Prozession 行列が行われるので、朝から見に行きました。


朝8時過ぎの電車に乗ってヴァーレンドルフに行こうとしたのですが、何故か電車が来ません。不思議に思って駅員に聞くと、この日は日曜なので、電車はないということです。駅の時刻表には日曜欠便とは書いていなかったのですが。改めて、日曜のドイツは、油断がならないと思い知らされました。結局、30分ほど遅れでバスに乗り、予定より大分遅れて、ヴァーレンドルフに到着することになりました。

ヴァーレンドルフの中心部の広場に程近いところにあるSt Laurentius 聖ラウレンティウス教会は、マリア縁の教会であり、そのため、ヴァーレンドルフではマリア昇天祭を盛大に祝います。多分この教会から行列は始まるだろうと思って行ってみたのですが、9時出発のところを、30分以上遅れたたので、教会はもう空でした。


聖ラウレンティウス教会の北側側廊の祭壇側には、一体の聖母子像が置かれています。1メートルほどのやや小さめの木像は、細かなレースと金糸で編まれたきらびやかな衣装を纏っており、その後ろには細い線が四方八方に伸びているという、大きなバロック調の金色の光背が輝いています。像の両脇には、高さ2メートルほどの板に、四角、ハート、手、足など様々な形をした銀のプレートが掛けられており、さらにその両脇には、色とりどりの花で飾られた大きな花束、そして蝋燭段が据えられています。以前は確か、両脇の銀のプレートはなかったと思うので、この日は特別に、飾り立てていたようです。また、大きな蝋燭段には、隙間なく膨大な数の蝋燭が捧げられていました。

特徴的なのは、この像が、黒かったことです。以前この教会を訪れた時には、聖母子像は黒くはなかったので、何故だろうと思ったのですが、どうもこの像は、2002年に一度火事で燃えてしまったらしく、長らく修繕に出されていたようです。以前据えられていた聖母子像は、オリジナルのレプリカということでした。

聖ラウレンティウス教会のマリア像は、奇跡を起こす癒しの像として18世紀以来信者に敬愛されているということですが、教会にあったパンフレットにおおまかな由来が書いてあったので、訳して掲載してみることにします。


二つの銀の足で、ヴァーレンドルフの乙女の栄光の歴史が始まった。

1752年聖ラウレンティウスの司祭ゲオルグ・テーケンが、司教宛ての手紙の中で、ある日二つの銀の足がマリア像に掛けられていたと報告している。その出来事は、彼が言葉で言い表せないほどの大評判になり、人々をその像に殺到させた。1752年7月15日の日曜日に、手と足の動かなくなった28歳の女性が教会に運ばれてきた。彼女が教会のマリア像の前で、じっとしたまま祈り続けていると、その夜彼女の長い間の苦しみが癒された。数日後、8歳の子供が、松葉杖で教会にやってきて、元気に杖無しで彼女の母親のところに戻っていった。100人以上の人々が、この出来事の証人となった。司祭テーケンは、さらに1752年7月17日に10歳の子供が突然快癒したこと、最終的にさらに二人の祈りが聞き入れられたことについて報告している。

数日内に起こった、自然のものとして説明できない、想像を絶する出来事である、センセーショナルな癒しは、ヴァーレンドルフの住人に、心からの深い興奮を引き起こした。夜まで、恩恵のマリア像の周りを人々が取り巻いた。ある者が教会に来て、「願い、祈り、叫び」を目の当たりにした。そして彼が慎み深く働きかけようとしたとき、「激しい言葉で」対応された。聖像への呼びかけ「ヴァーレンドルフの偉大な乙女マリア」は、その時からますます広がっていった。個人的な苦難を抱えた多くの人々が、中には遠くからもやって来て、新たな勇気と希望を手に入れた。特にヴァーレンドルフをほとんど焼き尽くした大火事の後には。戦争のさなかには、ここは多くの祈祷者の避難所になった。ヴァーレンドルフ市民は、マリア昇天祭に、9つの大きなアーチで、恩恵の聖母像に対して、敬意を表した。これは、今日までアーチ協会によって担われる習慣となっている。マリア昇天祭には、毎年数千人がヴァーレンドルフにやって来る。2002年7月23日、250年記念祭の数日前、聖像は火事によってひどく損傷してしまった。しかし、まるで奇跡によるかのように、火事によりひどく焼けたにもかかわらず、外側のかたちは保たれたままであり、ミュンスターの修復専門家ディートマー・ヴォール氏の多大なる尽力により保存することができた。聖ラウレンティウス教会の「黒い聖母像」は、訪れた人たちの多くに深い印象を残している。その損傷ゆえに、このマリア像は、身体や心に苦しみを抱えた人たちの近くに立っている。



街を歩いて気づくのは、店のショーウィンドーに、結構マリア像が飾られていることです。銀行や洋服屋などのショーウィンドーにも、わりと大き目のマリア像が飾られていたので、ヴァーレンドルフは、マリア崇拝の伝統が強い街だという事を実感しました。

市庁舎の前で、おじいさんに行列がどこに行ったかを聞き、そちらの方に歩くと、行列はすぐに見つかりました、吹奏楽団が演奏し、それに合わせ行列に参加している人たちが、賛美歌を歌っているので、近くに来るとすぐに分かるのです。

先頭では、祭服を着た子供たちが十字架と二本の旗を掲げて歩いて来ます。その後しばらく普通の服を着た平信徒が続き、その後吹奏楽団がやって来ます。吹奏楽団の後は車椅子の人たちが続き、また平信徒が続くと、白のシャツと黒のパンツというシックな衣装を着た少女たちに担がれて御輿に乗った聖母子像がやって来ます。この聖母子像は、やはり教会の像と同様に、衣装を纏い、頭の後ろに小さな光背を背負っています。オリジナルのマリア像は、火事で損傷しているので、行列で掲げられるのは、レプリカの像です。

聖母子像のすぐ後ろからは、祭服を着た歳を取った聖職者の集団、そして4人の聖職者によって四隅を棒で支えられた金色の天蓋がやって来ます。その天蓋の下には、顔を覆うように、太陽を模した形をした聖遺物容器を掲げた、高位聖職者らしき人(ミュンスター司教ではないでしょうか)が歩いています。

その後には、再び平信徒や修道女、さらにその後には、聖母子の姿を縫いこんだ旗を掲げた若者や、様々な団体の旗を持ち、軍隊風の衣装を纏った大人たちが続きます。そして、最後に平信徒の長い長い列が続き、行列は終わります。行列の先頭から末尾までは、数百メートルはあり、かなり長いものでした。おそらく、千人くらいの人が参加していたのではないかと思います。

このように大規模な行列ですが、沿道にはまばらな観客しかおらず、見るものというよりは、参加するものという位置づけのようでした。全く観光化はされてないようです。


この行列は、旧市街を満遍なく回るようで、曲がりくねりながら進んでいきます。沿道の両脇には色とりどりの旗、そして主要な通りには、Bogen アーチが据えられていました。行列は、聖母子やマリア像が上に据えられたアーチをくぐって、通りを練り歩いていくのです。歩いている間は、吹奏楽団の演奏に合わせ、信者が皆合唱をしています。何の歌を歌うかは、配られたパンフレットを見れば分かります。歩く場所によって、歌う歌の種類が決まっているようです。数多くの人によって共に歌われる賛美歌は美しく、本来の歌というものは、誰かが歌うのを聞くというよりも、みんなで歌うものだったということを思い起こさせられます。

途中街中のもう一つの教会で、短い儀式をやりつつ、行列は最後に市庁舎のある広場に戻ってきます。その広場には、カラフルな祭壇と、周りを天使で囲まれ、祭壇側にマリア像が据えられた円形のアーチが設置されています。広場には、端から端まで、さっきまで行列で歩いてきた人たちで埋め尽くされます。そこでまた、儀式が行われ、それが終わると、皆で教会に戻り、聖体顕示台と、マリア像を戻したところで、行列は終わります。マリア像は、北壁の礼拝堂に、安置されました。

その後は、教会で引き続きミサが行われました。ミサも含め、全てが終わったのは、だいたいお昼ごろでした。


以前にも、ケルンやミュンスターで、カーニバルの行列は見たことがあったのですが、このような宗教的な行列に参加するのは、はじめてだったので、非常に興味深かったです。街の大きさの割には、かなりの数の人が参加する、結構規模の大きな行列だったのですが、参加していたのは、教会のミサに来る人と同様に、大半が老人でした。自発的に参加しに来たような若者はほとんどおらず、また中年の人たちも、それほど多くはありませんでした。ドイツでも、様々な教会がかなり熱心にキリスト教の信仰を広めようと頑張っているわけですが、伝統的な教会の若者離れは、着々と進行していることが伺えます。