ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

昔の家族は、どんなんだったか。

相変わらず比較都市研究所に籠もって、文献を漁り、読んでいます。私が今知りたいのは、ドイツの近世都市の人口構成、特に子供の数についてです。

基本的に前近代の人口構成というのは、余り正確には分かりません。私の扱っている時代は16世紀前半なのですが、この時代で、子供の数まで正確に把握できる史料はないので、子供の数は基本的には分かりません。

そのため、仕方なく17世紀や18世紀の人口構成を扱った研究も含め、色々と眺めているわけです。とは言っても、当然の事ながら、17世紀や18世紀の人口構成を、そのまま16世紀に当てはめるわけにはいきませんので、悩ましいところです。

特に困るのは、ミュンスターは16世紀以前の史料の残存状況が、他の都市と比べても特別悪いために、使える材料が本当に限られていることです。何故ミュンスターで史料が残っていないかというと、私が研究している再洗礼派が、文書を皆燃やしてしまったからです。あいつらが文書を燃やさなければ、色々と楽になっていたのにと思うことも度々です。

彼らが文書を焼いたのは、もう500年近く前の話ですが、彼らが当時行った行為が、現代に生きる日本人の私にも影響を与えるというのは、面白いと言えば面白いです。

とりあえず、直接参照できる研究というのは全くないので、後の時代や、他の地域や諸都市の人口構成を参考にして、推測するほかありません。そのため、中近世のドイツの諸都市の社会構造の研究を、片っ端から参照しているのです。


ミュンスターの人口構成が、ある程度包括的に分かるのは、ようやく16世紀末のことです。その後、1685年、1770年に関する研究も行われ、史料もすでに刊行されています。とりあえず当面の目標は、これらの研究結果をまとめ、近世を通じて、ミュンスターの人口構成がどの程度共通していたのかを明らかにすることです。

その後は、ミュンスター周辺の諸都市、特にミュンスターとある程度似た機能を果たす、地域の中心となる中規模都市の人口構成を参照し、ヴェストファーレン地方の諸都市の人口構成にどの程度の共通性があったかを検討しようかと思います。

ただ、各都市の人口構成を比較する際には、気を付けなければならないことが非常に多いので、これもなかなか骨が折れます。


今日は、主にミュンスター近郊のヴァーレンドルフという街の1685年の社会構造に関する研究、及び史料を見ていました。*1

この本では、冒頭に史料の性格や分析方法、分析結果などが書かれ、その後には租税リストが並んでいます。つまり、一冊で史料と分析の両方が見れるという、非常にお得な本です。

私は分析結果を眺めると同時に、リストの方も色々眺めていたのですが、リストを眺めるだけでも面白いです。このリストは、世帯(Haushalt)毎に並んでおり、家長、および世帯に属する人たちの名前や職業、賦課される租税の額が載っています。16人にも達する大きな世帯もあれば、寡婦や日雇い労働者と言った間借り人ばかりの世帯もあります。この租税リストには、子供の数と年齢も載っているので、その世帯に何人子供がいるかも分かります。貧乏なのに子沢山な貧しい寡婦の世帯もあり、彼らの苦労が忍ばれます。

ちなみに、ここでいう世帯は、家族や親類だけではなく、若い職人や女中、場合によっては間借り人なども含まれます。この世帯の条件も、史料によって異なるので、これまた比較の際に頭を痛めるところです。

でも、こういったリストを見ていると、わずかな情報ながら、当時を生きた個々人の姿が浮かび上がってくるので、当時を生きた人々のリアリティーをほんの少しだけ感じられるような気がします。

*1:Reininghaus, Wilfried (Einleitung) und Schmieder, Siegfried (Hg.), Die Einwohner der Stadt Warendorf im Jahr 1685. Das Personenschatzungsregister des Jahres 1685. Quellen und Forschungen zur Geschichte des Kreises Warendorf, Bd. 37, Warendorf, 2000.