ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

教会の尖塔の見えない街

ウィーンの南っぽい街並みを歩いて感じるのは、教会の存在感が全くないと言うことです。ドイツの街では、たいていの場合街で一番高い建物は教会であり、街のほとんどの場所から教会の尖塔が見えます。このような街に住んでいると、自然と教会、つまりキリスト教の存在感を感じることになります。

しかし、ウィーンでは、周りの建物が高いために、教会が特別高い建物であるというわけでもなく、街を歩いていても、教会が周りの建物に埋もれ、すぐ側に行かないと、その存在が分からないというぐらい影が薄いです。

ウィーンには、街の中心部に、聖ステファン大聖堂という巨大な大聖堂があるのですが、この大聖堂の尖塔ですら、大聖堂の前の広場まで来てみないと見えません。そのため、このゴシック様式の大聖堂は、街の真ん中に聳えているにもかかわらず、周りの建物に埋もれ、疎外され、ひどく場違いというか、孤立して建っているように見えました。

教会の代わりにウィーンで存在感を主張しているのは、近世に建てられた宮殿です。つまり、ウィーンは、中世的な教会を象徴とする空間ではなく、近世的な貴族の宮殿を象徴とする空間になっていました。それは、キリスト教から絶対王制へ、天への指向から、地上への指向へという、ウィーンという都市における権力、権威、あるいは価値感の変化が、街並みというかたちで、象徴的に記録されているとも言えるでしょう。

私がウィーンを覆い尽くしているかのように見える、近世の宮殿を見て感じたのは、その平面指向です。要するに、より高い建物を建てることではなく、より広大な空間を作ることで、その空間に立つ者に対し、圧倒的に凄いものを感じさせるということです。

それは、バチカン広場を思い起こさせる半円状の空間を形作る国立図書館前の英雄広場や、国立美術史博物館と自然博物館の間のマリア・テレジア広場、そして何より、ウィーン郊外に広がる途方もなく巨大なシェーンブルン宮殿の庭園などに見られると思います。

見上げる空間ではなく、遙か彼方まで続く途方もない大空間が、近世的な空間であるということは、全てにおいてはったりが効いた、どぎついきらびやかさを見せる近世の装飾とよく似合っていると思います。

中心部のほとんどの教会がバロック様式に改築されていることを考えてみても、ウィーンは、中世的な要素が押しつぶされ、絶対主義的な空間に改造された街だと言えると思います。そして、その絶対王制期の街並みがそのまま残された、言い替えれば、栄華を極めたハプスブルク家が支配していた時代の様式で半ば時が止まり、その後は過去を生きる街になったということだと思います。

ローマが対抗宗教改革期のバロック様式で発展を止め、パリが第一次大戦前で発展を止め、街全体が近世や近代を懐かしんでいるかのように見えるのと同様に、ウィーンもまた、ハプスブルク家支配の時代で発展を止め、過去を懐かしんでいるかのように、私には見えました。


では、ウィーンの現在はどこにあるかと言えば、それはバロックロココの宮殿や昔ながらのカフェを懐かしんでいる、観光化された中心部ではなく、他のヨーロッパの大都市と同様に、拡大を続ける殺風景な郊外にあるのだろうと思います。