ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ドイツで、広島の原爆について発表する。


私の知り合いが、ミュンスターの外国人学生のための団体の会長をやっているのですが、彼から頼まれて、8月に広島の原爆投下について、口頭発表をやることになりました。この団体は、今年は広島、長崎の原爆投下から60年という事で、核兵器に反対するための小さなシンポジウムを開きたいそうで、日本人で、さらに歴史学を学んでいる学生である私に広島の原爆についての発表をしてほしいとのことでした。

とは言っても、私は歴史学の学生といっても、近世ドイツが専門で、日本の現代についての知識は、一般の人とほとんど変わらない程度しか持ち合わせていません。だいたい、私は、ドイツ語だって怪しい外国人なわけで、そんな大役を引き受けて良いものだろうかと思ったのですが、何分ミュンスターには日本人学生はほとんどおらず、歴史学の学生といえば、私しかいないということで引き受けることになりました。

今日は、この発表について話し合うということで、彼らの集まりに出かけました。私は、てっきり学生ばかりが来るものだと思っていたのですが、その場に集まっていたのは、高齢の方ばかりでした。外見からして、フラワーチルドレンの時代から運動を続けている筋金入りではないかという雰囲気を漂わせている方も混じっており、ヤバイところに来てしまったのではと思わないことはなかったです。ただ、彼らの多くは、ドクター付きで名前を呼ばれていたので、博士号を持っているインテリのようです。

彼らは、どうも核に反対する市民運動家のようで、この日の集まりも、学生団体の集まりではありませんでした。彼らは広島に原爆が投下された日である8月6日に、市庁舎の前で演説をやるそうで、私はそこで演説をやってくれと頼まれてしまいました。

しかし、市庁舎と言えば、街のど真ん中にあり、人通りの多いところです。そんなところで演説をするなんて、自分には荷が重すぎると思ったので、何度も「無理です」と断ろうとしたのですが、押しが強い相手の頼みをなかなか断れない意志薄弱な日本人の私は、結局相手に押し切られ、演説することになってしまいました。まあ、数分の短いものなのですが、当日の緊張と心労を考えると気が重いです。

その後、他のメンバーもやってきて、本格的に会議が始まり、当日どうするかということが話し合われていました。私は、何分事情が全然分からないので、黙ってそれを聞いていたのですが、そのうち当日の演説の話になり、私にも話が振られました。

彼らは私に、当日何について話したいんですかと、あたかも私が自発的に演説を申し出たようなたずね方をしたので、私は、自分が広島の原爆について特別な知識を持っているわけではないことを先ず説明し、それでも良いのかと確認を取り、彼らが何のために私に演説を依頼したのか、私はどういうテーマについて、どこに重点を置いて当日話せば良いのかを聞き返しました。結局、8月6日のイベントは、核兵器の危険性についてアピールすることが目的だが、演説の内容は、私が話したいことを話せば良いと言うことでした。

その後は、参加者の方々が、広島の原爆の被害や、その後の広島の復興、はたまた日本の原爆、核兵器に対する態度などの質問を次々に私に投げかけてきました。最後の方には、自衛隊イラク派兵の武装や、日本とアメリカの軍事同盟、アメリカの日本への核持ち込み疑惑など、際どい質問も出てきて冷や冷やしました。

私はこれまで、自分は余り自国政府に対する愛情がない人間だと思っていたのですが、いざ外国人から自国政府の政策に聞かれると、なるべく誤解を招かず、悪い印象を与えないように、自然と官僚的答弁が口から出たのには、少々驚きました。このような場では、自分が日本の見解を代弁するという意識が自然と生じるもののようです。

その後、知り合いの方から、同日の夜に、シンポジウムをやりたいという提案があり、日時や時間、あるいは私以外の誰が発表するかを話し合っていました。さすがに彼らは、どこでどのような企画を打てば、どの程度動員できるかなどをある程度読めるノウハウがあるようで、彼らの細かなアドバイスは、聞いていて面白かったです。しかし、驚いたのは、その知り合いが私に発表を頼んだのは、何週間も前なのに、まだ具体的には、何も決まっていなかったことです。

しかし、その議論の中で、3人ほどが発表した後、聴衆と発表者で議論をやるという話が出てきました。この議論についても私は聞いていなかったので、自分はドイツ語がそんなに出来ないので無理だと言うと、質問が分からなかったら、聴き直せば大丈夫だと呑気なことを言っていました。知り合いは、通訳を付けるとか、冗談めかして言っていたのですが、やはりヨーロッパ系外国人には、アジア人学生のドイツ語に対する不安が分からないのだろうと思いました。

始まってから2時間ほど経って、ようやく会議は終わったのですが、その後何人かで飲み屋に行って、歓談をしていました。私は、隣に座った、年齢不評な感じの方と話していたのですが、その人は、非常に変わった人で、こちらがどう対応して良いのか判断に困るようなことを連発して話していました。ただ、そういう話を聞く機会は、普通は先ずないので、とても面白かったです。