ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

麗しのラテン語

私が西洋史を学んでいて思うことは、自分はこれまで、歴史学の研究そのものに費やしてきた時間や労力よりも、圧倒的に膨大な時間や労力を語学に費やしてきたと言うことです。

世の中には、新しい言語を特に苦もなく、短期間で修得できてしまう語学の天才のような人がいるということは、周りを見ても分かるのですが、残念ながら私は、そのような特殊な才能は全く持ち合わせていませんでした。私にとっては、現代ドイツ語だけですでに手一杯なのですが、さらに中世低地ドイツ語と中世高地ドイツ語、オランダ語、中世オランダ語、フリジア語、さらにラテン語を勉強しなければなりません。中世低地ドイツ語については、ミュンスターに来てから一生懸命勉強しましたが、それ以外の言語は、時間が無くて、なかなか思うように勉強する暇がとれません。

しかし、勉強しないといつまで経ってもできるようにならないので、どの言葉も、少しずつ勉強しています。しかし、少しずつなので、どの言葉の習得も遅々として進まず、悩ましいところです。

私はラテン語は、かなり初心者なのですが、こちらに来てからラテン語を勉強する余裕がなかったので、ずっと放置してありました。しかし、このままではマズイということで、最近友人とラテン語の講読会を始めました。講読会とは言っても、友人はラテン語に熟達しているので、実質的には、私が一方的に教えてもらっているようなものです。

今日は、さっきまでその準備をして、ラテン語を読んでいたのですが、とにかく一向に先に進まないし、まだ意味も余り良く理解できないので、ストレスが溜まります。世の中には語学が大好きで、語学の勉強が楽しくてたまらないという人もいらっしゃるらしいですが、残念ながら私はそうではないので、肩はこるし、目は疲れ、心身共に疲弊してしまいます。

そのためしばしば、何故自分は、自分の身体が欲するのとは、全く逆の行為を、延々とやり続けなければならないのだろうかと、疑問に思うこともあります。語学が好きでも、得意でもないと言う時点で、西洋史、特に古い時代の研究は向いていないと見切りを付けた方が合理的だった気もしますが、現実には遙々ユーラシア大陸の反対側まで来て、日々非母国語漬けのストレスフルな生活をしているのだから、因果なものです。

しかし、学問をやるということは、世俗内禁欲的というか、意志、あるいは脳内の欲望の力によって、身体的欲求を押さえつけ、未来の目標に向かって全労力を投入し続けるという倒錯によって始めて成り立つ、不自然極まる行為でしょうから、因果な生活を送らねばならないのも仕方がないと思って、諦めてやっています。

ラテン語も、果たしていつそれなりのレベルに達するのか分かりませんが、毎週多大なるストレスを溜め、呻吟し、自分の身体が悲鳴を上げるのを押さえつけて、なんとか習練を続けるつもりです。