ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ヒロシマについて、読み続ける毎日。


私が、8月の原爆についての発表のために、日本から送ってもらった本は、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』、藤原帰一の『戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在』、NHK 出版編の『ヒロシマはどう記録されたか』、そして沢田昭二他の『共同研究 広島・長崎原爆被害の実相』です。また、ネットで見つけたPdf ファイルの『広島原爆戦災誌』(なんと、1226ページ!)を読んでいます。

私が本を送ってもらうに当たり目論んでいたのは、『ヒロシマはどう記録されたのか』などで基本的な事実を確認し、『戦争を記憶する』などで、原爆がどのように解釈されているかを確認することです。

私は、解釈について述べた著作はすでに読み終え、事実を書いた著作をこつこつと読んでいるのですが、やはり一度誰かの手により、咀嚼され、整形された文章や漫画よりも、淡々とした事実をつづった文章の方が衝撃的です。

これらの文章を読むと、原爆が落とされた後の惨禍たるや、およそ人間の想像力が及ぶものではなく、この世の地獄というより他ないものだったことが、痛いほど分かります。私も、小学校の時、『はだしのゲン』を読んだり、広島の平和記念館を訪れたりして、基本的な知識はあったのですが、これほど詳細に原爆の被害についての記述や数多くの人の証言を読んだことはなかったので、改めて大きなショックを受けました。

余りに惨たらしい描写をずっと読んでいるので、正直今は冷静さを欠き、頭が思考停止しているのですが、それでももう時間がないので、何に重点を置いて発表するかを、そろそろ決めなければなりません。

今考えているアプローチの仕方は二つあります。一つは、広島の原爆が、現在にも残している爪痕、あるいは現代における原爆の記憶のされ方といった、現代に生きる人間が、原爆をどのように捉えるかというアプローチの仕方です。

もう一つは、広島の原爆の被害がどのようなものだったかを、統計や証言を交え、説明するというアプローチの仕方です。

一時期は、広島、長崎の原爆投下、あるいは核兵器の使用の国際法上の位置づけについて発表したらどうかとも思ったのですが、私が、法学の専門家ではなく、何とも判断が付きかねるので、今回は見送ろうと思っています。とりあえず、何を軸として、発表するかは、まだ何も決まっていません。

ドイツの、しかも核兵器にある程度の関心を持っている人たちに、何を伝えるべきなのかを考えるのは、日本人の私には、難しいことです。これから、ドイツ人に原爆についてどの程度の知識を持っているか、あるいは彼らが学校でどの程度学んだかについて、色々聞いてみようと思っているのですが、もし彼らが余り知識を持っていないのなら、基本的な事実を提示するだけでも、十分意味があるように思います。何故なら、知らないことについては、人は何も判断ができないからです。

一方、現代を生きる人間にとっての広島の原爆の意味というのは、かなりやっかいな問題です。すでに原爆投下から60年が経とうとし、しかも冷戦時代のような、全面核戦争の危機がリアリティーを失った現在、原爆、あるいは核兵器に対する関心を維持する、あるいは新たに呼び起こすことは、かなり難しいように思います。

特に、ドイツ人にとって、原爆や核兵器による被害は、基本的には他人事です。原爆についての記事をネットで探している最中、今年の春にNPT (核不拡散条約)についての会議が行われたことを知ったのですが、私はドイツで、NPT についての報道を全く見かけませんでした。その後ネットで、NPT(ドイツ語でNichtverbreitungsvertrag 略してNVV)について検索してみましたが、探し方も悪いのでしょうが、Spiegel で検索して何もヒットしないなど、余り大きく報道された形跡はありませんでした。

日本での報道や関心は良く知りませんが、中国新聞では特集を組んだようですし、国連本部で原爆についての展覧会が行われたり、800人の日本人がニューヨークを訪れるなど、ドイツよりは、積極的だったのではないかと思います。

こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』などは、日本で大きな反響を呼んだように、現代に生きる日本人が、広島の原爆にどのように対する態度を取るかを考える際には、とても優れているのではないかと思います。

ただ、広島のことを、いかなる意味においてでも「我々」のことではなく、他人事としてしか捉えることの出来ない外国人に、この作品がどう受け取られるかは、私には上手く想像が出来ません。私はそのことが気になったので、英語などで、この漫画について取り上げた批評はないかと探してみましたが、まだ外国語訳されていない作品なので、手塚治虫文化賞受賞の報告くらいしか見つかりませんでした。

ただ、もし今度の発表で、パワーポイントなどが使えるならば、この作品の一部をドイツ語訳して、紹介してみたいとは思っています。

今回の発表は、明確に反核の意図を持って企画されたものですが、もうちょっと運動的な立場から距離を取った、引いた視点で何かを伝えられないものかと思っています。一方、できれば聴衆が、発表を聞き終わった後、胸の中でもやもやとした良く分からないものが残り、割り切れない思いを抱えて家に帰って欲しいと思っています。どうしたらそのようなおみやげを、聴衆にプレゼントすることができるでしょうか。まだまだ考えてみないといけません。