ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

知られざる戦後平和運動

そろそろ本腰を入れて準備をしないといけない時期と言うことで、原爆の発表のための素材や資料探しを一日中していました。すでに、紙の本は読んでしまい、調べものはネット上でするしかありません。ずっとパソコンのモニターを見ていたので、少し気持ちが悪いです。

今回の発表では、被爆者の証言と、原爆に対する日本の社会の対応の紹介を軸にして行おうと思っています。

そのため、戦後の日本社会の原爆への対応を調べているのですが、その過程で、自分がいかに日本の戦後史に無知であったかを思い知らされています。

たとえば、日本には代表的な反核団体が二つあります。原水爆禁止日本協議会原水協)と原水爆禁止日本国民会議原水禁)です。先にできたのは原水協で、1955年の第一回原水爆禁止世界大会後に作られています。

しかし、その後ソ連などの社会主義国家の核実験を正当化しようとする共産党系のメンバーと、あらゆる国のあるゆる核兵器の廃絶を訴える社会党日本労働組合総評議会系のメンバーの間で、激しい対立が起こり、1963年の第9回原水爆禁止世界大会は大混乱することになります。その後、社会党系のメンバーが原水協を離脱し、1965年に原水禁を設立しました。*1

第9回原水禁禁止世界大会の混乱ぶりは、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』の第一章でも描かれています。ただし、大江健三郎は、この混乱の背景について説明をしていないので、私は、最初何のことか良く分かりませんでした。

この二つの反核団体は、今に至るまで関係が修復されておらず、原水爆世界大会も分裂したまま行われているようです。反核平和運動も、生臭い政治とは無縁ではなく、そのせいで分裂し、協力できない体制が続いていたとは知りませんでした。

また、反核団体だけではなく、被爆者の団体も、同様に分裂していたそうです。広島には、広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)と呼ばれる団体が二つあります。、原水協の分裂後、その煽りを受けて、被団協も分裂したのです。それ以後、この二つの被団協は、分裂し続けたままです。

他にも、日本では、平和、反核が叫ばれた一方、当の被爆者への医療補償、あるいは国家補償は余り進まず、被爆者は個人で苦難を乗り越えなければならなかったことも知りませんでした。日本の政府も、国民も、原爆や平和については声高に叫んだわりには、被爆者にはずいぶんと冷たかったようです。

原爆をめぐる状況は、高度に政治的な内容を含むもので、アメリカの占領政策や、戦後の日本の安全保障、冷戦下の大国の核戦略、国内の左翼勢力との関わりなど、広範な知識がないと、なかなか十分な理解が難しい問題だと感じています。この辺は、できれば避けて通りたいと思っていたところですが、やはり原爆を扱うためには、避けては通れないようです。

*1:次のサイトを参照。