ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

戦争にはちょっと反対さ

原爆の講演会は、結局原発などの民間利用を含めた、核利用全般に反対するものになりました。そのため、そのタイトルも、ずいぶんと政治色の強いものになりました。それを見ると、自分のような政治意識薄弱な人間が参加して良いものなのか、疑問に思わないことはありません。

すでに、短い発表時間を埋めるぐらいの材料は十分すぎるくらい持っていますし、そろそろ準備も終わりにしようかと思うところはあるのですが、それでもまだ色々と調べてしまうのは、やはり心の中で、まだ引っかかっているものがあるからです。

自分の中で、何に引っかかっているのかは良く分からないのですが、こういう時は、身体を信用するしかないので、日々ああでもない、こうでもないと考え続けざるを得ません。

しかし、現代における原爆体験の意味、核抑止理論の是非、アメリカ、あるいは日本政府が被爆者に国家補償すべきか、広島・長崎の体験は記憶され続けるべきなのか、平和運動反核運動の戦後、あるいは現在における政治的妥当性、核兵器使用の国際法的位置づけ等々、私にはとても判断ができないような難しい問題が、原爆の周りには山積しています。

余り直視したくない面倒な問題が、山のようにあって、原爆について調べれば調べるほど、私は、ますます良く分からなくなっていくというのが正直なところです。

私個人の感情としては、核兵器は絶対になくなって欲しいし、原発も代替する発電手段があれば、無くなってほしいと思っています。しかし、それを公の場で公言できるほど、私はこれらの問題について良く知りません。

このような政治的問題を考えるときに、私がいつも頭に思い浮かべるのは、元サニーデイ・サービス曽我部恵一の「ギター」という曲の一フレーズです。この曲は、ニューヨークで9月11日にテロが起こった後、アメリカがアフガニスタンに派兵しようとしている時期に発表されたと記憶しています。ニュースでは、世界中で行われたアメリカの派兵に対する市民デモが映し出され、討論番組では対テロ戦争の是非が激しく議論されるなど、日常の中に戦争の気分が浸食してきた頃でした。

そんな時代の空気の中、彼は、日々の暮らしの様子を歌ったこの曲の中で、「そして僕はギターを弾いてる テレビではニュースが流れてる 戦争にはちょっと反対さ ギターを弾いている」と歌っていました。

私はこの曲を聴いて、自分も「戦争にはちょっと反対さ」という気分だと思い、リアリティーを感じたものでした。おそらく、日々の暮らしの中で、何となく引っかかるものを感じていた、曽我部や私のような人は、世界中に非常に沢山いたのではないかと思います。

原爆や核兵器についても、「核兵器に反対だ」を正面から大声で言うのではなく、ちょっと横を向いて、誰にも聞こえないようにボソッと「核兵器にはちょっと反対さ」と言うぐらいが、今の自分には限界だなと思います。

そのため、私は、自分の意見などは全く入れず、ドイツ人の知らない情報を伝える仲介者としての役割に徹しようと思ってはいるのですが、何を伝えるかを選択する時点で、発表に政治性が生じるわけですし、そもそも伝える意味があるものというのはどんなことなのか、明確な政治的信念や判断基準を持たない私には良く分かりません。

また、まだ心の奥で何かが引っかかっているのですが、それが何か自分でも良く分かりません。しかし、こういう時は、自分の身体を信じるしかありません。だから、ますます準備が進まなくなっていきます。

そうやってぐだぐだしている間に、時間は瞬く間に過ぎていき、原爆の発表に時間が取られ、自分の研究はどんどん停滞していきます。どうしたものかとは思うのですが、一方で、これは一度は真剣に考えておいた方が良い問題で、長い目で見れば自分の財産になるのではないかという気もします。いずれにせよ、もう少し、この問題とはつき合わざるを得ないようです。