ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

未来に対する贈与

相変わらず原爆の発表準備に追われる毎日です。結局、自分の意見やまとめはなるべく入れず、被爆者の証言をできるだけそのまま提示することにしました。やはり、実際に経験したが故の生々しい描写が、一番伝わりやすいと思うので。というわけで、ひたすら証言をドイツ語に訳しているのですが、みなさん論理的に明瞭な文章を書いているわけではないので、なかなか難しいです。証言のあの微妙なニュアンスまで訳すのは、私の語学力では無理なので、妙に筋の通った、分かりやすい文章になってしまい残念です。しかし、仕方がありません。

この間、ぐだぐだと考えていた時、とりとめもなく書いた文章があるのですが、結局発表には全く使わないので、何となくここに載せておきます。


過去の経験と未来に向かっての行動。原爆により自ら傷つき、あるいは地獄のような風景を見て、その経験と記憶、そしてそれによって引き起こされた健康被害、周囲からの差別などに苦しんだ被爆者の行動には、大きく分けて二つあった。一つは、余りにも辛かった記憶を思い出したくないため、あるいは自分、そして自分の子孫の差別を避けるために、当時の経験を自分の心の中に封じ込め、沈黙し続けることである。彼らは、あたかもあの日、原爆が落ちなかったかのように、振る舞い続けることで、なんとかその後も生きてきたのである。

一方で、自らの苦痛に満ちた経験を、むしろ積極的に語り、二度とあのような地獄を此の世に作り出さないために、原爆の恐ろしさを世間に知らしめようとしている被爆者も数多い。彼らは、自らの経験を語り広めることによって、自らの記憶を社会化し、自分だけのものではない日本人、あるいは人類共有の記憶にすることを願っている。また、語ることによって、自らの経験を整理し、他の人々と共有することは、政治的な行為であるだけでなく、彼らの苦しみを和らげる行為でもあったはずである。怒りと苦しみ故に、彼らは原爆について語り、核兵器、そして平和を希求するために声を上げ、アメリカに謝罪を求め、政府に国家賠償を求めてきた。

アメリカによる占領が終了し、占領軍による言論統制が解かれた後、次第に原爆の被害が広く知られるようになると、広島と長崎での原爆投下は、日本人全体にとっても、一種のトラウマめいた記憶となった。そして、原爆の恐ろしさを幼い頃から叩き込まれてきたため、日本人は、現在でも、その大半が核兵器に対して、極度の拒否感を持っている。今年の世論調査共同通信社)でも、日本人の82%は、核の先制攻撃は将来も正当化され得ないと考えている。日本政府は、自衛のための核兵器の使用は、国際法上違法であるとは言えないという見解を持っており、核兵器使用の明確な禁止を明示する国際法が存在するという立場を示していない。また、日本政府は、自衛のための最小限度の核兵器の保持は、憲法9条第二項に違反しないという解釈を持っている。ただし、原子力基本法第二条、及び核不拡散条約によって、法理論上核兵器の保持は禁止されていると解釈している。いずれにせよ、日本で核武装を肯定する者は、政府内でも、国民の間でも、今のところ極一部にとどまっており、核兵器所有や使用に反対な者が圧倒的多数である。

東西冷戦が終わり、核保有大国同士の全面核戦争が起こる可能性は減退する一方、NPT(核不拡散条約)に参加しない核保有国も現れ、核兵器の拡散、あるいは核兵器の使用を抑制する手段がなくなってきている現在、地域紛争、民族紛争、あるいはテロリズム核兵器が使われる確率は、確実に高まりつづけている。そのため、多くの被爆者は、将来核兵器が再び使われるのではないかという強い不安を持っている。

被爆者、あるいは日本人は、原爆投下を受けたという記憶により、その考え方、行動を束縛されている。一方で、原爆投下後の地獄を実際に経験した被爆者が少なくなってきて、時間が経つに連れて、その経験にリアリティーが無くなっていっている。それはある人にとっては戦後の忌まわしい記憶からの束縛からの解放であるが、一方で、その記憶を鮮明に保ち続け、それを覚えておくべきであると考える者にとっては、そのような記憶の風化は、避けるべきことである。記憶が薄れることにより、人々が核兵器の所有や使用に対する抵抗感が薄れ、核兵器が使われる機会が増えると彼らは考えているからである。

しかし、これは、日本という国には当てはまっても、世界的には当てはまらない。原爆についての被害は、日本では比較的良く知られているにせよ、他の国で、日本と同様に良く知られているというわけではない。何故なら、原爆投下は、自分たちのことではなく、遠い国で起こった、他人事だからである。それは、「我々」の記憶ではなく、自分とは関係ない「他人」の記憶である。そしておそらくは、ドイツ人の大半にとっても、原爆は、他人事である。

一方で、日本でも、原爆投下は、多くの人にとって、自分とは関係ない「他人事」であると言える。つまり、抽象的次元、たとえば核兵器に対する抵抗感というレベルでは、日本人は、広島、長崎の記憶を共有できるが、それを切実な危機感を持って感じられるかというと、元々そうではなかったであろう。何故ならば、大半の日本人は、原爆の被害を自分で経験しなかったからである。原爆投下が我々にとって近しい出来事であると感じられるならば、それは、教育、あるいは様々なマスメディアから得た二次情報の量が膨大であった事によるのであり、その意味に限定すれば、日本人は、ドイツ人やアメリカ人と変わらない。

しかし一方で、原爆は「日本」に落とされたものなので、日本人は、他の国民と異なり、その出来事を、「我々」の出来事であると考えることができる。それは、基本的に国民国家の国民は、その国の一員であるという帰属意識国民意識を持っているからである。さらに、その者が生まれたのが、「広島」あるいは「長崎」であるならば、原爆体験への距離は、さらに近くなることになる。何故なら、抽象的な国民意識と比べると遙かにリアリティーのある郷土意識が、その郷土で起こった出来事を、より強く「我々」の歴史であると感じさせるからである。

私が、今回こうやって広島について発表をすることになったのは、私が日本人であり、さらに広島県の生まれだからである。私にとって、原爆体験は、ドイツ人同様二次情報によって知っただけの、他人事である。しかし、私は、日本人であり、広島生まれであるという偶然により、広島の原爆により近しい存在ではある。それは、他人からそのように見なされるという意味においてそうであり、同時に自らそのように見なすという意味においてもそうである。

広島や長崎に、どれだけ近しい属性を持っているかと言うことが、明確にその者の原爆に対する意識を規定している。広島、長崎から遠ざかるに連れて、同心円状に感情的な近しさは薄れていき、どんどん他人事になっていく。そのため、自分の国に原爆を落とされたことのないドイツ人にとって、原爆が、日本人よりも遠い存在であることは必然である。

しかし、被爆者の一部は、そのような、自分たちとは元々遠かった人々に、どのように原爆の経験を伝えるか、より近い距離を持ってもらえるかについて考えている。それは、原爆の悲惨が伝われば、その悲惨さを知った人たちは、核兵器の恐ろしさを実感し、核兵器の使用を許そうとしなくなるだろうと信じているからである。このような考え方はナイーブであるという批判はあるし、実際に、原爆の悲惨さを知ったとしても、政治的、あるいは軍事上の信念から、核兵器の使用を否定しようとしない人々も沢山いるので、その批判はある程度当たっていると言える。

しかし、一方で、その余りの悲惨さを知り、倫理的に、核兵器を許すことができないと考える人々たちが数多くいることも事実である。人間が、ある種の近しさを感じることなく、自分が経験していないある出来事を、自分のことのように感じることは不可能である。そして、その近しさを感じさせるための手段として、実際にそれを経験した人々の言葉を聞かせるということは、大いに有効であるだろう。語り、伝えられることによって、本来経験しなかったことを擬似的に経験し、あたかも自分の経験のように感じられる人間の能力は、本来個々バラバラである人間同士を結びつけるために、極めて重要なものである。そのような能力は、原爆体験のような、大半の人間の基本的な倫理観に抵触するような惨事においては、なおさら強く機能するであろう。

遠い海を越えて、彼らの言葉や経験の一端がドイツのミュンスターまでやって来たこと、本来他人事であるはずの原爆について知るために、ドイツ人などが集まること、元々原爆とは無縁だった自分が、大勢の人の前で原爆について話すことになったことは、広島や長崎を核として、世界中の人々が、予想もつかないかたちで緩やかに結びついていくということがあり得るということを、証明している。

それが、実際に政治的な効力を持つかどうか、あるいはその繋がりの強さや広さや密度が十分であるかどうかは、また別の話である。しかし、そのような結びつきが、今後も次第に伸びていき、それがいつかそのうち、思わぬ形で誰かと誰かを結びつけ、予想もつかないかたちで、いつか何かを引き起こさないとは誰にも言えないであろう。被爆者やその支援者がやっている事というのは、ある意味では、そのような予期せぬ人々、予期せぬ出来事に対する、可能性の投げかけであり、贈与であるようにも思える。そのような贈与が、贈与する側が企図したかたちであるかどうにかかわらず、実際に遠い誰かに届くことはあるし、思わぬ何かを引き起こすということもありうる。それを期待するしない、あるいはそれに意味を見出す見出さないは別として、今私の周りに起きているのは、そのようなことなのであるということは、確かに言えるだろうとは思っている。個人的な見解を言わせていただければ、それは政治的実効性などの実利的な意味とは全く違う意味において、意味のあることであろうと思う。