ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

己が信仰に殉ず。

そんなわけで、私は、余り真面目に勉強せず、文献を読む以外は、映画を観たり、友達とご飯を食べたりと、のんべんだらりとしていたのですが、その間に、この間見ることが出来なかった、州立博物館の戦争写真展を見てきました。

私はここのところ、広島や長崎の原爆など、戦争に関わることをずっと調べ、考えてきたので、この写真展を見て、さらに戦争の気分を味わうことになりました。気分的には、広島からドイツは地続きだとしか思えませんでした。大都市だけではなく、小都市にも連合軍は、絨毯爆撃を行っており、この展覧会でも、都市が壊滅した様子を映した写真が数多く展示されていました。徹底的に破壊され尽くされた都市の風景を見ると、広島ほど徹底的ではないにせよ、ドイツの都市も、ほとんど灰燼に帰したことが良く分かります。

都市への絨毯爆撃で死傷するのは、ほとんど非戦闘員です。このような爆撃を、自衛のためという理由で、国際法に抵触しないものと、正当化できるのかと疑問に思う一方、徹底抗戦をしている相手に対し、国際法で許される限定された手段のみを使って戦闘を行う余裕は連合国にもなかっただろうとも思え、何とも言えません。

この写真展は戦争を扱っているので、必然的に死体が写っている写真もあります。たとえば、ドイツの降伏後、ドイツの軍人が路上で射殺されているところの写真が何枚かありましたし、空襲で亡くなった人々の死体が堆く積み上げられている写真もありました。

また、オランダは、1945年ドイツからの解放後も極度の飢えに襲われていたようで、骨と皮だけになるまでやせ衰えた人々の写真がありました。彼らの一部は餓死をしたようで、餓死をした女性、あるいは餓死をした人のお葬式の写真もありました。

また、自殺をした人々の写真も、何枚かありました。「水平線を目指して」さんのところにも書いてありましたが、ドイツが連合国に占領されたときに、ナチス敗北後の未来に絶望をして、命を自ら絶った人たちがいたようなのです。彼らの自殺の特徴は、ナチス党員が自分だけで自殺するだけではなく、往々にして家族全員を巻き込むことです。その最も有名な例は宣伝相ゲッベルスの一家ですが、それ以外にも一家心中をした家族は少なくなかったようです。この写真展でも、父、母、彼らの小さな子供の3人が、力無く倒れている部屋に、連合軍の兵士が踏み込んだときの写真が飾ってありました。

彼らは、不可避的に訪れる自分の望まない未来を許容できなかったのでしょう。そして、自分が許容できない世界を消すことが出来ない以上、自分を消すしかなかったのでしょう。日本の敗戦時にも、阿南陸相が自害していますが、ナショナリズムが疑似宗教的に機能し、その者の世界観や価値感の基盤を成している場合、国の終わりは、それを信じる者にとって世界の終わりに等しいものなのでしょう。

このような決して受け入れたくない敗北は、ミュンスター再洗礼派の司教との戦いでも起こっていますが、再洗礼派は、誰一人自殺をしていません。彼らの幾らかはおそらく、再洗礼派が敗北した後の彼らの未来に絶望したでしょうが、その絶望が、信者の自殺を導いたという例は、私が知る限りありません。おそらくこれは、キリスト教が、伝統的に自殺を禁止してきたからなのではないかと思います。それを考えると、ナチズムは、社会の非キリスト教化の終わった後の出来事なのだと実感します。そういえば、ヨーロッパで自殺が広まる過程は、やはり社会の世俗化の過程と軌を一にしているのでしょうか。

ただ、最も衝撃的な死体写真と言えば、やはり強制収容所の写真です。見渡す限りの広い空間に、やせ衰え、薄い皮膚から骨の浮き出た死体が、無造作に折り重なって漠々と広がっている写真を見ると、人間が単なるモノのようにしか見えません。この大量の死体を、ブルドーザーが片づけている場面の写真もあったのですが、人間の亡骸がモノのように扱われる場面を見るというのは、どうにもやり切れないものです。

私はここのところ、死体や怪我をした人々、破壊された街などの写真や映像を見続けてきました。それを見てつくづく思うのは、一旦戦争が起こってしまえば、人間の命は、一山幾らの軽いものになってしまうということです。人間の命が尊いとすれば、それは、人間の命を尊重しても問題がない状態が存在しているからであり、そのような状態でなくなれば、人間の命は、別に尊くも何でもなくなってしまいます。

そのような状態を避けるためには、どのような秩序を作れば良いのか、特に最も大規模に人間の命が無価値になる状態である戦争を避ける、あるいは戦争が起こったとしても、人間の命の価値をできるだけ下げないためにはどうしたら良いのかについては、今後も細々とでも考えていきたいと思っています。そのためには、最低でも外交、軍事、国際法、人権法、国際連合などについて学ばなければならないので、先は遠いと思う次第です。