ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ケルンは、低地ドイツ語圏ではない。

narrensteinさんのところで、ケルンが低地地方かという話題が出ていました。私は、ケルンのことは良く存じないので、ケルンを低地地方、つまりオランダの一都市として見るという見方があることは知りませんでした。

ケルンは、ミュンスター属するヴェストファーレン地方にとってももちろん非常に重要な都市でした。ミュンスターオスナブリュック、ゾースト、ドルトムントなどのヴェストファーレン地方の大都市は、北の沿岸部にあるハンザ諸都市とケルンを結ぶ中間地に位置したため、15世紀まで中継貿易で栄えました。

また、現在のルール工業地帯にあたる地域やケルン下流の地域には、中規模都市が密集していましたが、それはこの地域が、北ドイツ、低地地方、フランクフルト、東西ドイツを結ぶ大通商路の交差点にあったからです。この地域最大の都市が、ケルンだったわけです(この辺は詳しくないので、今一つ自信なし)。

ちなみに中世に中継貿易で栄えたこれらの都市の大半は、多分ハンザ同盟の衰退の余波なのでしょうが、16世紀以降、見る影もなく衰退し、人口を減らしています。*1

また、ケルン市ではありませんが、ケルン大司教は、宗教的、政治的にヴェストファーレン地方に非常に大きな影響を持っていました。そのため、ヴェストファーレン地方に対して、ケルン市、あるいはケルン大司教は、大きな影響力を持っていたと言えます。そのため、私は、ケルンとドイツ西北部とは密接な関わりがあると思っていたのですが、ケルン市と低地地方の関係は、良く知りません。

ちなみに、16世紀と言えば、低地地方はハプスブルク家の領土になり、ドイツ西北部の覇権をめぐって、ハプスブルク家ケルン大司教(及びドイツ西北部の諸侯)の関係が緊張し、牽制し合っていた時期にあたると思いますが*2、ケルン市がどのような立場を取ったのかは、個人的に気になるところです。

と、脱線が過ぎましたが、ケルン市を言語的な観点から見ると、低地地方ではないと言う結論に達します。15−16世紀の神聖ローマ帝国では、書き言葉は、南の高地ドイツ語と北の低地ドイツ語に別れます。高地ドイツ語と低地ドイツ語を分けるのは、通常machen とmaken の境目であるBenrather Linie (ベンラーター線)であると言われます。この線は、デュッセルドルフゾーリンゲン、ブッパータールの南を東西に走ります。ケルンは、この線の南に位置するので、言語学上は、高地ドイツ語圏に属することになります。

中世オランダ語は、高地ドイツ語ではなく、低地ドイツ語や英語、北欧の諸言語に近い言葉です。そのため、当時のヴェストファーレンの人々は、手工業の遍歴や、学校での勉強で、普通に低地地方に出かけていました。ミュンスターに大量にやってきたオランダやフリースラント出身の再洗礼派も、特に言葉に困った様子はないので、言葉の壁はほとんどなかったようです。

一方、低地ドイツ語と高地ドイツ語の壁は、結構高いものがあったようです。たとえば、中近世では、高地ドイツ語の本を低地ドイツ語に翻訳するということが良く行われました。ミュンスターでも、ヘッセンから派遣された説教師の説教は、聞いても意味が良く分からないので、地元出身のロートマンに説教をさせてくれという苦情が出されていましたし(もっともこれは、信者がロートマンに説教をさせたいがための言いがかりという側面もあるので、少々割り引いて聞かなければなりませんが)、高地ドイツ語は低地ドイツ語圏の人には、かなり分かり難かったようです。

そのため、ケルンの人が、北ドイツや低地地方の人と、どれくらい会話ができたのかは気になるところです。ケルンはかなりベンラーター線に近いところに位置するので、低地ドイツ語と共通する特徴も持ち合わせているようですが、私はケルン地方の言葉について知識がないので分かりません。

また、商人などは、いつも低地地方の人々とつきあっていたでしょうから、会話に問題はなかったのでしょうが、オランダや北ドイツの商人と取り引きするとき、たとえば書面を何語で書いたのかは結構気になります。

オランダ語はともかく、低地ドイツ語は北ドイツでも、16世紀以降次第に高地ドイツ語に取って代わられ、17世紀半ばには、書き言葉としてはほぼ消滅してしまいます。しかし、16世紀までは、沿岸部のハンザ諸都市は、専ら低地ドイツ語を書き言葉として使っていたので、高地ドイツ語圏との取引でも、低地ドイツ語を使う機会はあったような気がするのですが。

と、ケルン市民の意識、知識人の往来などについては良く知らないので、余り関係ないことばかり書いてしまいましたが、何分私はケルン市について良く知りませんし、Scribnerの論文も読んでいないので、見当違いのことしか書けませんでした。お粗末様です。

*1:Ditt, Hildegard, Ältere Bevölkerungs- und Sozialstatistische Quellen in Westfalen. Methoden der Auswertung, in: Ehbrecht, Wilfried (Hg.), Voraussetzungen und Methoden geschichtlicher Städteforschung, Köln, 1979, S. 124ff.

*2:ちなみにこの両者の関係が、ミュンスター再洗礼派に対するミュンスター司教の戦争に、微妙に影を落としているので、そのうちもう少し突っ込んで調べてみたいところです