ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

歴史学?、どうしてまた?

オランダ史研究会のサイトに、「歴史学?、どうしてまた? ―― ファン・デァ・ワウデ教授の最終講義 ――」という文章があったので、大変興味深く読みました。その中で、次のような主張がありました。

未来への視点を欠いた歴史学は、当然ながら懐古趣味か審美的なお遊びに過ぎなくなります。われわれ歴史家は未来の展望の中で過去を問うことが大切なわけです。過去、現在、未来は時間の連続であって切り離すことはできません。われわれは現在の時点から手持ちの知識を使って過去の歴史を創造し、それをもとにして不明瞭な未来を見通そうと試み、人の意志を通じて未来にはっきりとした影響を及ぼすのです。
このように考えるならば、われわれは新たに次のような結論を手にすることになります。すなわち「未来[への視点]なくして歴史に社会的必要性はない」。

ファン・デァ・ワウデ教授の最終講義、3頁


歴史学の存在意義や社会的意義を擁護するのに良く聞く類の主張だとは思うのですが、お題目として唱えるだけならともかく、実際にこのような目的意識に則って研究することが、歴史学、あるいは社会にとって良いことなのかどうか、私には判断ができませんでした。この文章の中で、ワウデ氏が挙げている実例が、フランシス・フクヤマウォーラーステインハンチントンたちなので尚更です。

また、このような擁護が、国の官僚や大学の理事、競合する他学科の教員を説得し、万国の大学の歴史学科を守るために、どのくらいの実効性を持つのだろうかと言うことも、つい気になってしまうところです。

それにしても、歴史学、あるいは自分の行っている研究の社会的意義を説得的に説明することは難しいと思います。私も色々と考えているのですが、色々と考えている、その方向性や目的自体に疑いを感じなければならないのではないかと思わざるをえない、あるいは思うべきではないかと感じざるを得ないというのは、私の偽らざる考えの一端ではあるということで、何とも困ったものだと自問自答する次第です。