ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

楽しきドイツでの最後の晩餐 in Speyer

Worms (ヴォルムス)からSpeyer (シュパイアー)に向かう途中、Mannheim (マンハイム)に少し立ち寄りました。Mannheim と言えば、ドイツの人気グループSöhne Mannheims (マンハイムの息子たち)の故郷ということで、ちょっと立ち寄ってみたかったのです。

マンハイムの街は、ドイツの街には非常に珍しく、完全な碁盤の目状になっています。マンハイムはどうも近世に作られたかなり新しい街のようで、旧市街がそもそも存在していなかったようです。

街の印象ですが、これまで私が見たどのドイツの街よりも圧倒的に汚かったです。街中のゴミ箱というゴミ箱が一つ残らず全て溢れに溢れ、周囲にゴミが山のように積み上がり、散乱していました。多分公務員のストで、清掃車が来ないせいではないかと思います。

街並みも、まるで日本の郊外都市のような真新しい近代建築が立ち並んでいるので、余り趣があるとは言えません。ただ、店が沢山あり、人が沢山闊歩しているので、非常に活気はありました。全体的にはやはり工業都市らしく、Bielefeld やDortmund などと雰囲気が似ていると思いました。

マンハイムの教会は、何分新しい街なのでバロック建築が多いようでした。マルクトにある教会、そして大学の近くにあるJesuitenkirche もバロックでした。しかし、どちらの教会もなかなか綺麗な教会でした。マルクトの教会は、真ん中の時計台を挟んだ反対側にある裁判所(?)と対になっています。

おそらくこの建物は、街を建造したプファルツ選帝候が作らせたものではないかと思いますが、宗教、そして法制度が対になっているというのは、近世領邦国家の政策をシンボリックに表しているように思え興味深いです。

とりあえず中心だけさっと見て、マンハイムを離れ、本来の目的地であるシュパイアーに向かいました。シュパイアーは、私の研究対象である再洗礼派、及び宗教改革にとって、決定的に重要な都市です。

先ず有名なところでは、シュパイアーは、プロテスタント発祥の地です。1529年のシュパイアー帝国議会宗教改革を支持する諸侯や諸都市が、カトリックによって行われた決議に抗議したのがプロテスタントの呼び名の始まりだからです。

しかし、このシュパイアー帝国議会では、再洗礼派に関する決議も行われています。これにより、カトリックプロテスタント双方の同意の下、幼児洗礼批判、あるいは成人洗礼は死を持って罰せられることになりました。もちろん、この決議以前も迫害、処刑は行われていましたし、この決議以降も、再洗礼派が常に処刑されたわけでは全くありませんが、再洗礼派の処刑が帝国公認になったことは大きな意味を持ったはずです。

さて、16世紀のことはともかく、現在のシュパイアーは人口6万人ほどの小さな街です。私は例によって駅前にホテルを取ろうと思ったのですが、残念ながら駅前には半分潰れたようなホテルが一つあるだけで、しかもそこは断られました。仕方ないので、街中に行き、ホテルを探しました。しかし、中心部は通りが石畳なので、トランクを転がせず、往生しました。結局一晩54ユーロのTrutzpfaff というホテルに泊まりました。

シュパイアーは司教座都市なので、大聖堂があります。この大聖堂は、マインツやヴォルムスに匹敵する巨大さと壮麗さを誇っており、ドイツ屈指のロマネスク建築の一つだと言っても良いと思います。ただ、マインツやヴォルムスと異なり、シュパイヤーの大聖堂は、大聖堂の中の装飾が簡素なのが残念でした。おそらく、17世紀の大破壊や第二次大戦での破壊で、かなりの祭壇や彫像、壁画などが破壊され、元に戻らなかったのではないかと思います。ちなみに、地下には、中世初期から盛期の歴代皇帝のお墓がありました。

シュパイアーは、他の教会も見事なものが多かったです。街中を流れる小川の向こう岸にあるドミニコ会女子修道院付属のSt. Magdalena 教会は、小さいバロック教会で、三つの見事なバロック様式の祭壇がありました。また、修道女の方々が良く瞑想しているようでした。

表通りを一つ入った通りにあるDreifaltigkeitskirche は、中はガラス越しにしか見えませんが、木の渋い色を上手く使った落ち着きのあるバロック教会です。Heiliggeistkirche は、プロテスタントの教会なので入れませんでした。*1

旧市街の外側に隣り合うように建っているカトリックSt. Joseph 教会と、プロテスタントのGedächtniskirche (追憶教会)は共に19世紀に作られたネオゴシックの教会ですが、どちらも私がこれまで見たネオゴシック教会の中で最も素晴らしい建築でした。どちらも、身廊の幅が広く、側廊の天井の高さが身廊と同じ、柱が細く、余裕のある大きな空間を持つ教会でした。

St. Joseph は、窓を大きく取ることで、教会に入る光の量を増やし、明るい空間を演出していましたが、Gedächtniskircheは、窓の小ささと色の濃いステンドグラスにより、暗い空間の中にステンドグラスに描かれた宗教的な場面を強調しているなど、対称的な見せ方をしていました。

また、Gedächtniskirche は、1529年のプロテスタント発祥を記念する教会なので、入り口にはルターやルターを支持した諸侯達の彫像が建ち並んでいました。また、プロテスタントの教会にもかかわらず、カトリック並みに、祭壇にキリスト像があったり、ステンドグラスに様々な宗教的場面が描かれるなど、聖画像を多用していました。

大聖堂の近くにある歴史博物館はかなりの大きさでしたが、今回は一番の目当ての大聖堂の宝物と中世の展示が改築中でみれなかったので残念でした。ちなみに、14世紀末のシュパイアーの人口は約5000人らしいです。今回訪れたライン川沿いの旧自由帝国都市コブレンツ、マインツ、ヴォルムス、シュパイアーはいずれも中世の人口が約5000人ほどで、人口的には大都市ではありませんでした。にもかかわらず何故これらの都市が、帝国議会開催地に選ばれたのかは、やはりライン川沿いという交通の便の良さ故だったのでしょうか。

シュパイアーもライン川沿いの街ですが、特に港はなく、人気もありませんでした。

晩は、泊まったホテルの下で食べようと思っていたのですが、生憎お客で一杯で、大分待たないとならないということで、大聖堂近くのDomhof-Hausbrauerei というレストランで食べました。ここは2階建てで、100人以上座れるような大きなレストランなのですが、席が一杯でした。入り口にドイツのコール元首相やイギリスのメジャー元首相が来訪したという写真もあったので、かなり有名なところのようです。しかし、値段はわりと手頃で、お高い感じのない大衆的な店でした。

席がどこも一杯で仕方がないので、一人でビールを飲んでいたおじいさんと相席してもらうことになりました。そのため、おじいさんと雑談して食事をすることになりました。この方は、バイエルンから来た旅行者の方だそうです。以前ミュンスター近辺を自転車で回ったこともあるそうで、ミュンスター醸造*2でビールを飲んだこともあるそうです。

この方が、Pfalz の郷土料理のLeberknödel, Wurst, 色々な肉を固めた料理、Sauerkraut の盛り合わせを頼んでいたので、私も頼みました。ドイツ料理も、きちんとしたレストランで食べると、やはり非常においしいです。お腹が空いていて、腹一杯食べたいときには、ドイツ料理は最高ではないでしょうか。

私がミュンスターで勉強していて、明日日本に帰ることを話すと、日本でもがんばれ、またそのうちドイツに来てくれと行ってくれました。ドイツ最後の夜に、偶然の出会いがあり、楽しい晩餐を送ることができました。

いよいよ、明日日本に帰国しますが、飛行機のことを考えると憂鬱で仕方がありません。また、あの狭苦しいところで十数時間か・・・・。

*1:カトリックの教会がほとんど昼間は一般に開放されているのに対し、プロテスタントの教会は、開いていない場合が多いです。この辺にも、カトリックプロテスタントの教会に対する考え方の違いが反映されていると思います。

*2:多分Pinkusmüller ではないかと思われます。