ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

広島再訪

昨年原爆についての講演の準備をしている時から、もう一度見てみたいと思っていた広島を訪れた。もちろん、一番の目的は、平和公園

平和公園、特に原爆ドーム周辺には外国人観光客の姿が多く見られた。アメリカ、ヨーロッパ系の人々が目立つ。見分けがなかなか付かないが韓国人、中国人もかなりいたようだ。原爆ドームは、印象よりもずいぶん小さい建物のような気がする。相生橋は、現在もT字型をしていた。川では、観光船が走っている。川沿いに桜が並び、花見客で埋め尽くされている。桜はまさに満開。

原爆ドームのすぐ近く、川から一本中に入った駐車場だらけの裏通りに原子爆弾の爆心地がある。島病院は現在も存在する。爆心地に中国人カップルがおり、男性の方に日本語で写真を撮るよう頼まれた。

平和記念資料館は、入館料が50円という中途半端な値段。館内には原爆投下前の広島、投下までの経緯、そして投下後の惨禍が展示されていた。この資料館を見れば、かなり網羅的に知識を得られるようなものだった。展示には、原爆で死んだり、怪我を負った人の写真や、遺品、破壊された様々なものが展示されていた。また、被爆者が描いた絵なども展示されていた。また、被爆者の証言をビデオで見ることが出来る。

展示の内容自体は、昨年調べものをしていた時に知っったことばかりだった。しかし、ずっとそのような展示を見ていると、余りの痛ましさに、見るのが辛くなってくる。

資料館の感想ノートには、外国人の感想も沢山あった。英語、ドイツ語、スペイン語、韓国語、中国語などが見られた。

平和資料館の近くには、原爆死没者追悼平和祈念館がある。祈念館には、死没者を偲ぶ大きな部屋、被爆者の証言が読める部屋などがある。また、死没者の顔写真がモニターに映し出され、コンピューターで検索できる部屋もある。

追悼祈念館は、死者一人一人の顔を名前と顔を取り戻すための施設なのだ。モニターに次々と映し出される個々人の写真を見て、自分が歴史学を通してやりたいことの一つは、このような忘れ去られている市井の人たちを、永遠の忘却から守ることだという意を新たにした。

その後市民球場脇を抜け、広島城へ。広島城は原爆で全壊したので、当然戦後に復活したもの。現在残る堀の内側だけで十分広いが、昔はこの辺り一帯は城、あるいは武家屋敷だったそう。平和公園の手前まで、ずっと武家屋敷だったのだ。

広島城は中は鉄筋の張りぼて。場内は博物館になっており、広島市と、広島城の歴史が分かる。広島は元々河口の中州にできた村が前身。

毛利元就がそれまでの本拠地だった山城の郡山城から、交通の便の良い海沿いに城を作るべく、河口を干拓させ、城下町を作ったのが起源。それまでは、この地域の通商の中心は、平家縁の厳島だった。

城下町は、中心に城と武家屋敷があり、その周辺を町人の家が囲む。職人は固まって住んでおり、紙屋町、鉄砲町など職業にちなんだ町名が付けられた。

広島城には余り外国人観光客は多くなかった。平和公園以外は、余り行かないのかもしれない。

その後、歩いて川沿いにある縮景園に行く。ここは、外国人も多い。池とその周りの丘、そして桜の美しい庭園。池の真ん中にある石橋が非常に登りづらい変なかたちをしている。綺麗だが、周りに高層マンションなどの高層建築が建っているので、凄く興ざめさせられる。

その後、比治山に登る。山の上から広島市を一望したかったが、山が低いにもかかわらず、高層建築が多いので、一望は全く出来なかった。

展望台に何故か猫が何匹もいたが、そのうちの一匹が酷い皮膚病にかかっていた。顔から頭にかけての毛が荒れて、ところどころ爛れた肉が見えていた。両の目も病気のせいで見えなくなっているようだった。とても病気は治りそうになかったので、そう遠くない将来、路上で野垂れ死ぬのだろう。

その後、広島港へ行くと、そこは大規模なフェリー乗り場になっていた。韓国にも船が行くようだった。松山行きの船の運賃が、業績不振のため値上げになると書いてあった。船のような速度の遅い乗り物は、やはり人気がないのだろうか。

その後一度ホテルに戻り、お好み村でお好み焼きを食べる。お好み村のお好み焼き屋は数が多すぎて、どこで食べて良いか分からなかったので、名前で「カープ」という店を選んだ。肉増量のお好み焼きが1000円近くとかなり高かったが、ソバをその場でゆでるなどして、非常においしかった。