ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

熊本は暑かった。

広島から熊本へ。九州初上陸。博多まで新幹線、その先は特急。しかし、特急は車両は立派だが、在来線の線路を走るし、それほど早いとも思えなかった。広島を8時30分頃出て、昼前に熊本に着いた。

学部時代の友人と、6年ぶりくらいの再会をする。病気療養中が長引いている彼だが、見た目は元気そう。熊本を案内してもらう。熊本にも路面電車が走っている。また、熊本の中心部は駅からかなり離れており、駅前には予備校やホテルしかない。

とりあえず昼飯を、こむらさきというラーメン屋で食べる。本場のとんこつラーメンは始めて。友人はラーメンと言えばスープが白いものだと思っていたそうだが、常識が違うことを実感する。ラーメンは、醤油か味噌が典型だろう。

その後、熊本城へ。桜が既に葉桜になりかかっている。Tシャツ一枚で良いような暑さで、とても4月とは思えない。城の石垣が非常に大きい。熊本周辺は地盤が悪いせいで、地面に近いところでは勾配がゆるく、次第に勾配の度を上げていくという武者返しという様式で作られているそう。

熊本城も、広島城と良く似ており、江戸初期加藤清正が作らせ、その後周辺が武家屋敷になり、城下町として発展したそう。しかし、それ以前から集落はあったようだ。

熊本の町は西南戦争で一度ほとんど全焼したが、熊本城は落ちなかった。友人の話によると、日本の城は、すでに火砲が登場した後に作られているので、大砲などでも簡単には落ちないそうだ。設計思想は、ヨーロッパの近世の稜保と共通しているという。あれほど広大な領域を堀で囲むのは、大砲を届かなくさせるためなのだろう。熊本城の中も鉄筋の張りぼてで、歴史博物館になっている。

天守閣を見たり、茶屋で熊本名物らしいいきなり団子を食べたり、櫓を見たり、旧細川家刑部邸を見ていると、すぐに夕方になってしまった。刑部邸は、さすが2万5千石の家だけあって広大な邸宅だった。

広島城内にも護国神社があり、戦争で亡くなった英霊が祀られていたが、熊本城にも護国神社があった。広島には中国軍管区司令部があったから分かるが、熊本にも軍の司令部があったのだろうか。

その後友人の家に招かれ、晩ご飯をごちそうになる。妹さんが、友人とは似つかないかわいらしい方で驚く。また、友人の部屋で、歴史学の本を見せてもらう。商業関係の本が色々あるので、後で使いたい本をメモする。友人宅でも情報収集に余念はないのである。また、研究に関する雑談もとりとめもなくする。

また、彼はこのブログを偶然見つけて、読んでいたそうだ。後輩もたまたま見つけたと言っていたし、結構知り合いが読んでる例もあるのだろう。この世界の狭さを感じる。

寝る前に、部屋にあった「のだめカンタービレ」を読み始め、ついつい全部読んでしまった。内容はベタだが、ついつい先が読みたくなる良くできたマンガで、暇つぶしには最適だと思う。