ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ただいま絶不調

現在博士論文の構想を立てている最中なのですが、自分でもびっくりするほど全然進みません。先週末から、やらなきゃやらなきゃと思いつつ、ネットで遊んでたりと、逃避行動ばかりを取ってしまうので、深層意識では、余程やりたくないのでしょう。(自分のことなんですが)

一番の問題は、専門外の人にも興味を持ってもらえるような論点や視点をどう出すのかですが、これはずっと考えつつも、なかなか上手い具合に良い答えを出せないもんであります。っていうか、別に日本ではこれまでミュンスター再洗礼派の研究なんてほとんど興味を持たれなかったし、16世紀という時代を考えるためにどうしても知っておかなければならない事件というわけでもないので、自信を持って「この研究はやる価値があります」とか「重要ですよ」とは主張しずらいというところがあります。

また、元々の私の問題意識が、社会心理学認知心理学的なので、歴史学的な問題設定に上手く合わないと言うところもあって、いつも悩ましく感じるところです。

また、ミュンスター再洗礼派研究というと、日本では、倉塚平先生の素晴らしい業績があるわけですが、日本の宗教改革研究の中で、ちゃんと利用された例は余りないような気がします。ドイツでは、重要研究という位置付けで、研究史でも必ず言及されるほどの質なのですが。ですから、ミュンスター再洗礼派について論文を書いたところで、よっぽどどうにかして工夫しないと、日本ではほとんど誰も使ってくれない可能性が非常に高いような気がします。でも、苦労して日本語で論文を書いても、誰も使ってくれないのでは、余りに切なすぎます。

そのため、やはり、他の研究者の方々に使ってもらえるような論文を書きたいという気持ちはあるのですが、果たして需要は日本に存在するのかと考えた場合、一般書レベルはともかく、専門レベルでは、ほとんど存在しないような気もします。

そもそも、再洗礼派研究全般にせよ、ミュンスター再洗礼派研究にせよ、近年の重要研究が日本でほとんど翻訳されていない、または紹介されていない現状では、専門性の高いモノグラフィーよりも、研究史のまとめや重要論文の翻訳、概説書の翻訳、あるいは執筆の方が、ずっと西洋史学会、あるいは社会にとって必要な気もします。しかし、私は、今後のキャリアのことを考えた場合、さしあたりは、研究紹介ではなく、先ず博士論文を書かねばなりません。*1

ヴェストファーレン地方の地方史研究、欧米の大学の研究者による研究、日本での専門レベルでの研究、日本での再洗礼派研究の啓蒙では、求められることが全て違うようでして*2、私としては、どこに照準を合わして良いのやら良く分からず悩んでいるというところがあります。いや、日本向けに書かなければならないということは分かっているのですが、正直、研究史的に考えると日本の研究というのはほとんど存在しないも同然なので*3、どうすれば日本向けになるのかがさっぱり分かりません。

私自身は、非常にちまちました地方史的な研究から、一つ一つ事実を着実に確認し、徐々にパースペクティブを広げていきたいと思っているのですが、残念ながらゆっくり蓄積していく時間がないので、ハッタリをかましたりしなきゃ駄目なのかなあ、でも余りしたくないなと憂鬱になっています。

行き詰まっているときは、とりあえず史料や重要文献を読んで良い案が浮かぶのを待つというのが、過去の経験から言えば、一番現実的な方法なので、とりあえず視野を広げるべく色々な文献を延々と読もうかと思います。でも、まだドイツから送った資料が日本に届いていないので、それまでは色々と我慢しなければなりません。

*1:その後で、ぜひ研究紹介や翻訳はしなければなるまいとは思っています。

*2:どう違うのかは、詳しくは存じませんが

*3:倉塚先生の研究は、欧米では研究史的な位置付けが明確に可能ですが、日本では何分唯一のミュンスター再洗礼派に関する研究と言うこともあり、位置付けが難しいような気がします。