ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ミシェル・フーコーの系譜学

  • 系譜学

内田樹「無料ファイル交換と系譜学」

歴史学と系譜学のアプローチの違いについてお話をする。
歴史学は、ある歴史的事実が継起したあとに、それらを貫く「鉄の法則性」を発見しようとする。
系譜学は、どうしてある歴史的出来事が起り、そうではない出来事は起らなかったのかについて、そこに関与した無数のファクターを考量する。
系譜学が教えるのは、ある出来事が起き、そうではない出来事が起きなかったのは、多くの場合「偶然」だということである。

内田樹『寝ながら学べる構造主義*1

「いま・ここ・私」というのは、歴史の無数の蹄鉄点において、ある方向が「たまたま」選ばれたことによって出現したものに過ぎません。しかし、私たちはその「事実」を無視することになると、驚くほど勤勉になるのです。
世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性に満たされているというのはSFの「多元宇宙論」の考え方ですが、いわばこれが人間中心主義的進歩史観の対極にものと言えます。


ミシェル・フーコーニーチェ、系譜学、歴史」*2

単一な究極指向性のまったく外に、さまざまな出来事の独自性を見定めること、それらの出来事を、最も予期しないところ、歴史などもたないということになっているもの、−さまざまな感情、愛、意識、さまざまな本能、の中に探ること、それらの出来事の回帰を、進化のゆっくりした曲線をあとづけるためにではなく、それらが多様な役割を演じた多様な場面を再発見するために把握すること、それらの出来事の欠落している点、それらが起こらなかった時点までもはっきりさせること(プラトンシラクサへ言ってもマホメットにはならなかった・・・・)

同上*3

歴史の中で働くさまざまな力は、ある目標に従うものでもなければ、まさに闘争の偶然に従うものなのである。(中略)それらはつねに出来事という独自の偶然のうちに現れるのである。(中略)そこには摂理も窮極原因も存在せず、存在するのはただ「偶然のさいころ筒を振る必然性の鉄の手」だけである。それにしてもこの偶然を単なるくじ引きのように考えてはならず、権力への意志によりつねにせりあげられていく危険だと考えなければならないのであって、権力への意志は、あらゆる偶然の結果に対して、これを制御するためにさらに大きな偶然の危険を対置するのである。


Wikipedia:http://en.wikipedia.org/wiki/Genealogy_(Foucault)

Foucault also describes genealogy as a particular investigation into those elements which "we tend to feel [are] without history". This would include things such as sexuality, and other elements of everyday life. Genealogy is not the search for origins, and is not the construction of a linear development. Instead it seeks to show the plural and sometimes contradictory past that reveals traces of the influence that power has had on truth.


まだ、きちんと系譜学について理解しているわけではありませんが、内田先生の系譜学の可能世界論的側面を非常に強調する解釈は、かなり自分流なような気がするのですが、どうなのでしょうか。

しかし、内田先生の、系譜学の可能世界的側面を強調する解釈は、個人的には非常に興味深いと感じています。

因果関係と偶然は、歴史学の理論的考察の中で良く取り上げられる問題ですが、歴史学における偶然の扱いというのは、なかなか興味深いものがあります。

たとえば、ミュンスター再洗礼派王国は何故成立したかという問いは、この偶然の問題と、非常に密接に関わっていると言えます。ミュンスター再洗礼派王国は、歴史上ほとんど例を見ない突飛な王国でしたが、これが成立するためには、非常に様々な条件が重ならなければ不可能でした。そして、その様々な条件を全て満たすような状況はほとんど出現しないために、歴史上に同様の事件はほとんど起こらなかったわけです。

そのため、再洗礼派運動が始まる前の時点から考えた場合、再洗礼派運動が成功する確率よりも、失敗する確率の方が遙かに高かったと言えます。にもかかわらず実際には成功したのですが、これを必然と考えるか、偶然と考えるかはなかなか難しいところです。しかし、少なくとも、ミュンスターにおける再洗礼派運動が別の方向に進む可能性は、いくらでもあったことは事実です。

私は権力の問題にはさしあたり関心がないので、ニーチェフーコー的系譜学を行うつもりはありませんが、内田的系譜学の方は、常に気にしていきたいと思っています。

それにしても、ニーチェフーコーは、歴史学のことをボロクソに書いているのですが、彼らの時代から歴史学はかなり変化しているので、もうそれほど当てはまらないような気もするのですが、いかがでしょうか。今時、「鉄の法則性」を発見しようとしている歴史学者は、かなり珍しいのでは。

  • 参考文献

*1:84−85頁。

*2:11−12頁。

*3:27−28頁。