ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

下層民にも、都市に対する思い入れはあったのか?

メラーやブリックレ以来、初期段階における宗教改革運動は、共同体原理を原動力とする民衆の渇望によって推進されたと言われてきましたが、最近考えているのは、ゲマインデの成員とそこに属さない人々では、都市共同体に対する思い入れが、全然違うのではないかということです。

というのは、どうも当時の社会も非常に移動が多い社会で、特に身分が不安定で、職がなくなればすぐに他の都市に移らなければならない日雇い労働者や奉公人は、頻繁に移動を繰り返していたようだからです。この移動の研究には全然通じていないので、何とも言えませんし、ミュンスターにおける移動の問題は、扱うのが非常に難しいので、やはり何とも言えないのですが、当時の都市を考える上では、このような人の移動は結構重要のような気もします。

また、奉公人や日雇い労働者たちのかなりの部分は、そもそもその街で生まれ育ったのではなく、周辺の農村から都市にやって来た人たちだったはずです。特に、ミュンスターのような大都市なら、かなり広い範囲から、人を集めていたはずで、住民の結構な部分は周辺の農村や小都市の出身だろうと思います。彼らにとって、ミュンスターは、そもそも自分の故郷ではないし、長い間住んでいるわけでもないのだから、都市共同体に対する思い入れは、それほどなかったと考えた方が良いような気もします。

ある人が、共同体原理を体得するのは、ある程度年齢を重ね、市民やギルドの成員としてゲマインデに迎え入れられ、その中でゲマインデの成員の文化を身に付けてからなのではないかという気もします。

そのため、同じ宗教改革運動に参加すると言っても、ゲマインデの成員とそうでない人々の間には、大きな意識の相違があってもおかしくはないような気がします。

もちろん、一方で、外から都市に流入してきた人も、生まれ故郷で、子供や若者という立場ながら、共同体原理をすでに理念として体得しており、基本的な意識は、ゲマインデの成員と根本的には変わらなかったと言う解釈も可能でしょう。

この辺りの問題を扱うには、私の知識が不足しすぎているので、当時の人の移動の頻度、距離、年齢、人の移動と共同体意識、階層毎の意識や文化の違いなどについて、研究史を洗い出してみる必要があると思う次第です。

そういえば、都市を単位とした共同体意識の形成のための手段というのは、何がありましたでしょうか。毎年の市民宣誓は、市民だけが行うのか、住民全員が行うのか忘れたので、後で確認しなければなりません。

また、現代では、「拝外主義的愛国主義者には、低所得か低学歴が多い」という説もあるようですが、中近世の身分社会と現代の民主主義社会とでは、人々の帰属意識が全く異なるでしょうから、同様のことはなかなか言えないような気もします。あるいは、不満や自尊心の欠如のために、自らを所属する共同体と同一視し、足りないリソースを補うということは、近世でもあったのでしょうか。仲間団体というレベルならありそうですが、都市全体、特に人口が多く、色々な人々がいる大都市では、都市のアイデンティティーというものが、住民全員に共有されていたとは、考えにくい気もします。

一方で、ミュンスターアムステルダムを文字通りキリストが再臨する「聖なる都市」と、一定数の再洗礼派が信じていたことを鑑みると、都市を聖なる共同体と考える見方も存在したことは確かなようです。自分に知識が足りていないので、今のところはまだ、どのように考えて良いかは良く分かりません。