ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

見えない人々

相変わらず延々と史料を読むだけの毎日が続いているのですが、何故ただ文字を読むだけで、これほどまでに心身共に疲弊するのか不思議に思います。

私が今、主に探っているのは、ミュンスターにおける宗教改革運動の支持者についてです。史料に出てくる単語一つにまで目を凝らして、誰が支持者だったのかを探っています。そこで気が付くのは、下層民や女性が全く出てこないことです。運動が、皇帝、司教、司教座聖堂参事会、聖職者身分、騎士身分、市当局(市長と市参事会)、長老(民衆の代表)とギルド長、市民階級という制度的な枠組みの中で進行している限り、都市共同体の正規のメンバーではない下層民や女性は表には表れません。

しかし、これは彼らが宗教改革を支持しなかったことを意味しません。むしろ逆で、彼らの大部分は、宗教改革を支持していたことが容易に予想されます。にもかかわらず、彼らは史料に出てこないので、これは実証できません。

気に掛かるのは、北西ドイツにおける、1525年の都市反乱と宗教改革運動の関係です。南ドイツ、中部ドイツにおける農民戦争では、宗教改革の理念が運動の正当性を支えていたにもかかわらず、彼らの要求は、福音の貫徹だけでなく、社会・経済的なものが中心的でした。

一方、未だ宗教改革の理念が広まるのが遅かった北西ドイツでは、1525年の都市反乱では宗教改革の影響がほとんど見られませんでした。そのため、この都市反乱では、中世末以来の反教権主義色が強いにせよ、基本的には社会、経済的な要求が中心となっていました。これは、ミュンスターでも例外ではありません。

しかし、1530年代に北西ドイツに宗教改革運動が遅ればせながら到来し、ミュンスターで都市反乱が再燃したとき、1525年の宗教改革で見られた社会、経済的な要求は後ろに引っ込み、宗教的な要求が全面的に強調されることになります。そのため、ミュンスターでは、農民戦争とは異なり、1525年の反乱と同様の社会・経済的な動機が、運動の起動要因であり、多くの人々の支持を集めた原因であるとは、直接的には言えません。

この時、1525年の反乱と1530年代の宗教改革運動の間の連続性が問題となります。おそらく、1525年の反乱には、多くの下層民が参加していました。では果たして、ミュンスター再洗礼派の大部分を占めた下層民と女性は、宗教改革運動にどのような態度を立っていたのか、支持していたとしたら、何故支持していたのか、またその際に社会、経済的な要因はどのような影響を及ぼしたかなどについて、もっと考えてみないとなりません。

見えない人である下層民や女性が表に表れるのは、運動が制度的な枠組みを越え、カオス状態の中で進行するようになったときです。彼らが浮かび上がるわずかな痕跡の中からしか、彼らが再洗礼派運動を支持するようになった要因は読みとれません。しかし、その痕跡は余りに少ない。この僅かな痕跡から、再洗礼主義が、何故彼らにとって魅力的だったのかを探らねばなりません。それによって、当時の市民階級とそこから外れた人々の間に存在した、様々な違いが浮かび上がってくるはずです。そして、その違いは、再洗礼派運動の進行に、大きな影響を与えているはずです。

そのため、直接表れない行間にさえ、彼らの痕跡を探さねばなりません。これを可能にするのは、ただ何が何でも証拠をつかんでやると言う、歴史家の執念のみです。この執念は時間の浪費と心身の疲労を誘いますが、私は、何としても彼らの姿を、暗闇の中から引っぱり出してやるつもりです。