ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

神学を理解していない者が、いかにしてある神学を支持するようになったか?

1532年8月16日に、ベルンハルト・ロートマンをはじめとした福音派説教師が、教会に残る悪癖についての文章を、市参事会に手渡し、その文章が彼らの前で読み上げられました。この文章の中で、ロートマンは教会の聖餐式に対して批判を行っているのですが、その際に、彼はルター的な共在説ではなく、ツヴィングリ的な象徴聖餐論を主張しています。つまり、彼は、聖餐式において、パンとワインは、実際にキリストの肉と血に変化したのではなく、パンはパンのままで、ワインはワインのままであるとはっきりと述べています。

この聖餐論をめぐるルターとツヴィングリの争いは非常に深刻なもので、聖餐論が一致しなかったために、ドイツ、スイスの福音派の共闘を目指したマールブルク会談は無惨にも決裂によって終わりを迎えたほどです。この時代では、神学における敵対は、時に政治的合理性をも凌駕してしまったわけです。このマールブルク会談は1529年に開かれ、その後は、ルター派宗教改革導入に際しては、ツヴィングリ的な象徴聖餐論は絶対に導入できないことは明らかになりました。

ミュンスターは象徴聖餐論が広まっていたスイスや南ドイツからは遠く離れたドイツ北西部にある街です。北西部含めたドイツ北部の宗教改革は、ルター派の影響の下で導入されています。ロートマンが前述の文章を公表する直前の7月末に、実は、ミュンスターの市参事会も、ルター派諸侯の中心人物であるヘッセン方伯フィリップに、助けを求める手紙を送っています。当然彼が信仰しているのは、ルター派聖餐論で、その彼が、ツヴィングリ的象徴聖餐論を許容するはずはありません。

にもかかわらず、ロートマンは、あえて誰が読んでも明らかなように、堂々と象徴聖餐論を主張したわけです。まさに、怖いもの知らずの大胆不敵さです。つまり、彼は、政治的危険性を顧みず、己の神学的信念を真正面から主張したわけです。

しかし、ここで興味深いのは、この教会の悪癖を批判した論文は、ロートマン個人ではなく、6人の福音派説教師の連名で提出されていることです。そのため、他の説教師達も、当然事前にこの文章を読んで、その内容に同意したと言うことが推測されます。では、彼らがロートマンと同様に、象徴聖餐論を支持していたのかというと、ほぼ間違いなく違います。そうではなくて、彼らは単に、ロートマンが主張した聖餐論を理解できなかったのだろうと思います。つまり、彼らは、ほぼ間違いなくマールブルク会談のルターとツヴィングリの決別について知らなかったし、ルターとツヴィングリの聖餐論の違い、そして象徴聖餐論の政治的な意味を理解していなかったのです。そのため、一応連名で名前は挙がっているものの、実質的には、この論文をロートマン一人が書いたことは明らかです。

しかし、実は、ロートマンの聖餐論を理解していなかったのは、説教師だけでありません。曲がりなりにも神学の専門家である説教師がこの調子なので、神学的教育を受けた分けでもない俗人である市参事会や長老、ギルド長、並びに市民、住民が、聖餐論を理解できたはずはありません。にもかかわらず、市民はロートマンの著作は、神の言葉を混じりっけなしに、聖書に基づいたものだと固く信じ、司教の勧告や皇帝勅令に対し、敢然と立ち向かっていくのです。

ロートマンたちの論文を受け取った後、市参事会は、反論するように、カトリックの聖職者にこの論文を渡します。しかし、彼らは自分たちでは反論せず、そのままこの論文をケルンに送ってしまい、彼らに反論をお願いしています。つまり、カトリックの聖職者は、自分たちで、神学議論を行い、ロートマンに反論する能力がなかったのです。

そのため、神学をきちんと理解し、議論が出来る者は、ミュンスターでは、ベルンハルト・ロートマン唯一人だけだったと言えるでしょう。ミュンスター宗教改革運動、並びに再洗礼派運動の進展は、正にロートマンという個人の並外れた能力に、大きく左右されていたと言えるでしょう。

興味深いのは、明らかに神学的議論を、きちんと理解できていなかったミュンスターの市民が、ロートマンをあれほどまでに信頼したのかということです。実は、象徴聖餐論の時に起きたのと同じようなことが、ロートマンが幼児洗礼批判を始めるときに、もう一度繰り返されます。つまり、ロートマンが説いた洗礼についての教えの政治的な意味合いを理解できる者が市内にいなかったため、みんなが一度は彼の言うことを正しいと認めてしまったのです。このことから、ミュンスターの市民にとっては、純粋に神学的に考えた場合、ルター派聖餐論でもツヴィングリ的聖餐論でもどちらでも良かったし、幼児洗礼を肯定しても、否定してもどちらでも良かったと言えます。

では、彼らが、福音派の神学に求めていたものは、何だったのでしょうか?宗教改革運動の最中に、司教に送られたミュンスター市民からの手紙を見ると、彼らは、純粋な神の言葉を聞きたい、そしてその神の言葉は、聖書によってのみ根拠付けられ、人間の付け加えたものが何もない状態でなければならないと、何度も何度も繰り返しています。ここで注目すべきなのは、彼らが、個々の論点にはほとんど触れていない点です。彼らは、何が間違っていて、何が正しいということを直接は余り主張しません。主張するのは、ロートマンの著作は、聖書に基づいているので、神の言葉と一致していると彼らが信じていると言うことだけです。ここから、聖書に基づく純粋な神の言葉を聞くことが、彼らの最も重要な目的だということが分かります。

教会の権威に代わって、聖書が神学の根拠となるという考えは、福音派の根本原理とも言うべきもので、ミュンスターの市民も、この原理を受け入れていたということです。教会ではすでに説教師が、聴衆が理解できるドイツ語で、聖書についての説教を行っていたので、市民は急速に聖書についての知識を増やしていたことでしょう。また、史料には出てきませんが、もしかすると聖書の読書会も、すでに宗教改革導入前に、あちこちで行われていたかもしれません。ちなみに、後に再洗礼派になる住民が、熱心に聖書について学んでいたことは、カトリック信者が書いた『懺悔の書』の記述で裏付けられます。

これをそのまま解釈するならば、結果としてどのような神学が導き出されるかどうかにかかわらず、正当な手続きを踏んで、説教が人々に伝えられることが最も重要だと、彼らが見なしていた、つまり結果ではなく、手続きの正当性に主眼があったと、こじつけようとすればこじつけられる気もします。この場合、正当な手続きが取られれば、その神学はどのようなものであれ認められうるという考えを論理的に導き出しますし、そのような考えの存在は、公に開かれる討論会で、その神学を導き出した手続き、すなわちその神学が聖書の記述と合致しているかしていないかを精査することによって、その正当性が判定されるべきだという、公開討論会を重視する態度によってある程度裏付けられると考えられます。ミュンスターの市民もまた、ロートマンにカトリックの聖職者が全く反論をしないことを、彼らがロートマン支持を撤回しない理由として取り上げ、もし彼らがロートマンの論の誤りを聖書に基づいて論証したならば、ロートマンを罰することに同意すると、何度も繰り返して主張しています。

また、彼らがあれほどロートマンを信頼したのは、おそらく、聖書によって自らの神学の根拠が何であるかを、聴衆に分かるようにきちんと明示して説教を行っていた、ロートマンの根拠付けの手続きの正当性と透明性に感銘を受けたからだろうとも推測が出来ます。にもかかわらず、神学は、手続きの正当性によってのみ正当化され、受け入れられるものではなく、その受容は、多分に政治的なものであることもまた、言をまちません。

ここに到ると、聖餐論と洗礼論の受容のされ方の違いは何故生じたのか、つまり宗教改革運動において、ほとんどの住民が、聖餐論をその政治的意味を知らぬままに支持し、外交的危険性を顧みず、ロートマンを信じ、司教や皇帝との戦いを辞さなかったとして、あたかもその反復であるかのような幼児洗礼批判が、市内でより大規模な亀裂を生んでいったのは何故なのか、その断面は、何故、そして何処に走っていたのかという問いが生じるわけですが、これについては、今はまだ沈黙しなければなりません。