ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

考古学はどう検証したか

考古学はどう検証したか―考古学・人類学と社会

考古学はどう検証したか―考古学・人類学と社会

朝日新聞でインタビュー記事が出て、非常に興味が湧きました。

学説の誤りひるまず解く『考古学はどう検証したか』

2006年10月05日

 考古学の進展で新しい歴史像が描き出されることが多くなった。では、これまで当たり前だと思っていた歴史像はどこから来たものだったのだろうか。そうした素朴な疑問に真正面から答える一冊を、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の春成秀爾教授(考古学)がまとめた。『考古学はどう検証したか』(学生社)。間違った学説がまかり通ってきた理由を解き明かそうという、相当な痛みをともなう異色の学術書だ。

■「先達」が研究対象

 「あまり歓迎されないテーマかもしれませんね。しかし、私は自分が納得できる答えをどうしても見つけたかった。なぜ、私はそう思っていたのか。なぜ、私はその時に疑わなかったのか」

 500ページを超える新著が取り上げたテーマは、大きく分けて、北京原人弥生時代の年代▽考古学の捏造(ねつぞう)▽陵墓の比定▽明石原人――という五つだ。

 兵庫県明石市に転居して中学に入る春、明石原人骨が見つかった西八木海岸を父に連れられて歩いたのがきっかけで、考古学に目覚めた。以来50年余。今回の研究対象とした考古学者の多くは、あこがれ、教えを受け、影響された先達だ。

 弥生時代の始まりが500年早くなって紀元前10世紀にまでさかのぼるとの見解は、自身も加わった歴博グループが加速器質量分析法(AMS)を用いて打ち出したものだ。単に年代が古くなるだけではない。弥生時代は鉄器とともに始まったという歴史像そのものを破壊した。そんなに早い段階なら、中国にも鉄器は存在しない。

■「弥生と鉄」検証

 弥生=鉄器という考えがどこで生まれたのかを探した。浜田耕作中山平次郎、森本六爾、小林行雄と考古学史に残る研究者たちの歩みを丹念に調べ、杉原荘介が中国に出征直前の43年に著した『原史学序論』にたどりつく。

 杉原は、日本が世界戦争を主導し、燦(さん)とした歴史を持続しているのは偶然ではないといい、〈その歴史の淵源(えんげん)を尋ねて見れば、其(そ)れはまこと理由のある〉と結論付けている。その理由とは、弥生時代の鉄器文化が〈相当に優秀性を誇るに足るものであった〉ことだと論じていた。しかし、当時知られていた鉄器の遺物は、微々たるものだった。

 敗戦後に杉原は戦時色を削除した改訂版をだすが、弥生=鉄器という枠組みは維持された。さらにその後、古いとされる地層から2、3の鉄器が出土し、彼の考えは学界で確固たるものになる。

 その根拠となった鉄器の出土状況を改めて調べると、弥生の早い時期といえるものはない。それを示したうえで、〈鉄と米は、大砲・軍艦の材料と戦地での食糧として、戦争の遂行に欠かせない物資として、国家・国民にとって絶えず意識のなかにあった。(……)根拠は薄弱であったにもかかわらず、杉原は弥生時代を鉄と米の時代と規定した。そこには、当時の時代性が影を落としているようにみえる〉と指摘した。米も縄文時代にすでに存在したことが明らかになってきている。

■師にも厳しい目

 「考古学は物に即した学問とされています。しかし、物の解釈となると、社会環境なり時代なりの影響を受け、それらに流されるものです」

 学問の師の一人であった直良信夫に対しても、温かくも厳しい目を向けた。明石原人の発見で知られる直良は、松本清張の小説『石の骨』のモデルとして知られ、努力して石器を報告しても、人骨化石を見つけても、学歴がないために学界に認められない悲劇の人として描かれた。だが、〈(直良の石器を認めなかった)当時の学界人の判断は正しかった〉として、直良が学問的手続きを踏んでいなかったことにも問題があったとみなした。

 国内外の現場を精力的に歩き、関係者を訪ね、手紙や日記、ノートのような一次史料を自分の手で見つけ出して、論を展開した。その情熱と、北京原人から近・現代の神武天皇陵までカバーする幅の広さには驚かされる。だが、「あくまで余技の研究」と述べる。

 「このような研究史をたどる作業は、後ろ向きなものと考えられがちです。しかし、誰かがきちんと検証しないと、学問は次の段階に進めません」

 学問は、確かな資料を整えての創造的な研究と、その厳密な検証の相互作用だと語る。

 「大事なのは科学的精神・批判的精神、というごく当たり前のことを確認したのが、この本の結論だったのかもしれません」


朝日新聞


研究をやるためには先ずはじめに、研究史を調べなければなりませんが、過去の研究を見ていると、個々の歴史家のバイアスがいかにその人の研究に影響を与えてきたかが、良く分かります。ランケなどの実証主義者が、自分で言うほどただただ実証していたわけではないという指摘もありますし、E. H. カーは、歴史家についても調べろとか言っていますし、ポストモダニストなども、歴史学も物語ではないかなどと批判をしていたようです。

しかし、そういうことは気を付けなければならないが、どれほど気を付けても個々人のバイアスは入り込みますので、最善を尽くしつつ、それで足りない部分は、「そういうものだから仕方がない」と諦めるしかないのだろうと思います。