ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

意図したことが、意図しない結末を反復して生じさせる構造があるかどうか

私たちは常識的には、人間が社会構造を作り上げてきたと考えてきました。親子兄弟夫婦のあいだには「自然な感情」がまずあって、それに基づいて私たちは親族制度を作り上げてきたのだ、と。レヴィ=ストロースはそのような人間中心の発送をきっぱりとしりぞけます。

人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出すのです。(中略)

ご覧のとおり、私たちは何らかの人間的感情や、合理的判断に基づいて社会構造を作り出しているわけではありません。社会構造は、私たちの人間的感情や人間的論理に先だって、すでにそこにあり、むしろそれが私たちの感情のかたちや論理の文法を事後的に構成しているのです。ですから、私たちが生得的な「自然さ」や「合理性」に基づいて、社会構造の起源や意味を探っても、決してそこにたどりつくことはできないのです。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書、2002年、157頁

レヴィ=ストロースの構造人類学上の知見は、私たちを「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向けます。レヴィ=ストロースガ私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、社会集団ごとに「感情」や「価値感」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだ、ということです。人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。

これはよく考えると不思議なルールです。私たちは人間の本姓は同一の状態にとどまることだと思っていますし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して、誰にも与えないことだと思っています。しかし、人間社会はそういう静止的、利己的な行き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら、このルールを守らなければなりません。それがこれまで存在してきたすべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。このルールを守らなかった集団はおそらく「歴史」が書かれるはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書、2002年、167頁


人間が意図して行ったことが、その意図とは全く別の結果を引き起こすということは良くあることです。アダム・スミスの「見えざる手」、社会学で言う合成の誤謬マックス・ヴェーバーの資本主義論、ダーウィンの自然選択論、ドーキンスの利己的遺伝子論なども、そのような構造を論じているのだと思います。となると、ある結果から、その結果を引き起こした意図を導き出すことは、必ずしもできないということになります。ある個人の意志がある行動を引き起こすとしても、その行動が、どのような結果を生み出すかは、完全には予測できません。そのため、個人の意志とそれによって引き起こされた事象の間には、複雑な要因が絡み合うブラックボックスが挟まっていると考えた方が適切だと言えます。

他方、個々人の意志がどうあれ、人間社会が交換を促す方へと何故か向かっていくという構造を、内田先生は、自然選択的な考え方によって説明しようとしています。個々の社会・文化によって左右されない構造というものが存在するとするならば、それは、人間という種が普遍的に持つ特性だといえるでしょう。すなわち、様々な文化、行動様式がかつてはあったとして、交換を永続化できない文化、行動様式を持つ社会は、そのような文化や行動様式を取らせる遺伝子と共に自然と消滅したということです。これは、言い替えれば、交換を自己目的化できなかった社会は存続できなかったということでしょう。