歴史における転轍
社会変化に関わる問題です。(参照:「ピーター・バーク」「栗原孝」)
以上の考察から誘発された用語上の問題点は、より大きな原則、つまり全ての革命は同時に一つの反動を生み出すのであり、それ自体の内部に先例への思い出を秘めている、という原則を考慮に入れれば解消することが出来る。プロテスタンティズムによる宗教改革は、教皇の堕落に対して、原始キリスト教への回帰を主張したのではなかったか。フランス革命は、古代ローマあるいは強力なスパルタの共和国の題目を得意満面に叫び続けてはいなかったか。一八三〇年の革命的ロマン主義者が宣言した美学上の「自由」も、よく見れば過去にその先駆者というかモデルを持っているのである。そしてこのモデルはあらゆるところにあるのだ。
エウヘーニオ・ドールス『バロック論』(美術出版社、1974年、第3版)、87頁
じつは時代を問わず、意味論の動態には、<反発><短絡><言い訳><借用>といった転轍が付き物なのです。
抽象的には、意味論の動態は、再帰化と自明化のあいだを振幅します。先の例では、自明化の一種である<短絡>が起こると、それに対する<反発>というかたちでの再帰化が起こりましたが、再帰性が忘却されて再度<短絡>が起こると、今度はそれに対して<言い訳>というかたちでの再帰化が起こります。こうした転轍的な状態遷移のうねりを微細に記述する。
「アウラ喪失が忘却される時代」にはアウラ概念そのものがボキャブラリーから消え、「全体性拒絶が忘却される時代」には全体性概念そのものがボキャブラリーから消えます。ボキャブラリーそれ自体からの消去こそが、社会が僕らに「人間」であることを要求しなくなった時代に対応するのではないか。それが北田さんの問題設定に対する僕の理解です。
第四世代のフランクフルターが評価するリッターないしマルクヴァートの「埋め合わせ理論」的にいえば、近代がもたらす「欠落体験」が「埋め合せ」のための各種表象(人間・全体性・愛・・・・)を生み出すのですから、「アウラの忘却」は「欠落体験」自体が抹消されて、各種表象の作動平面それ自体が存在しなくなってしまう事態に相当しているといえます。