幸福の神義論
幸福な人間は、自分が幸福をえているという事実だけではなかなか満足しないものである。(中略)彼は、自分より幸福でない者が、自分と同じだけの幸福を持っていないのは、やはりその人にふさわしい状態にあるにすぎない、そう考えることができれば、と願うようになる。自分の幸福を「正当な」legitim ものたらしめようと欲するのである。もし「幸福」という一般的な表現をもって名誉・権力・財産・快楽等のあらゆる諸財を意味せしめるとすれば、この幸福の正当化ということこそ、一切の支配者・有産者・勝利者・健康な人間、つまり幸福な人びとの外的ならびに内的な利害関心のために宗教が果たさなければならなかった正当化という仕事のもっとも一般的な定式であり、これが幸福の神義論 Theodizee des Glückes とよばれるものである。
マックス・ヴェーバー「世界宗教の経済倫理 序論」(マックス・ヴェーバー著、大塚久雄・生末敬三 訳『宗教社会学論選』 みすず書房、1972年、41-42頁)
社会的に周縁的な立場に立っている人に対して、昨今浴びせられている諸々の言葉を思い起こしながら読むと、良い感じですね。