ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

南三陸志津川海の旅

焼け付くような陽差しと真っ青な空が眩しい夏真っ盛り、私は日々家に籠もる生活を続けているわけですが、夏が終わる前にどうしても一度海を見に行きたかったので、本日は宮城県北部は志津川に行って参りました。

志津川駅へは、気仙沼線で仙台から直通快速が出ているのですが、本日はお盆なので大変混み合っていました。ちなみに仙台から気仙沼を直接結ぶ列車は、悲しいほど本数が少なく、地方のもの悲しさを感じました。

仙台から約1時間20分で、志津川駅に着くと、とりあえず町を少し歩いてみました。特徴としては、町の中心に水路があり、そこに船が沢山留まっていること、道が狭いこと、個人商店が多いこと、店の看板がどれもかなり色褪せていることなどが挙げられます。志津川は、海沿いの町ですが、海のすぐ近くに山が連なっているので、人が住める平野が少なく、人口が集積できない町であると言えます。そのため、車で移動するにせよ商圏にそれほど人口がおらず、大規模店が成り立たない、そのため収益に敏感なチェーン店などの大手資本は進出をしないのではないかと何となく思いました。発展途上国には搾取される富もないので、大資本にはただ無視されるだけだと言われることもありますが、これは国内の人口が集まらない地方にも言えることなのかもしれません。

また、志津川は、地震の際に共に大きな津波被害を受けたということで、チリと友好関係を結んでいるそうで、海辺の松原公園にモアイ像とコンドルの像が建っていました。ちなみに、志津川は、津波には非常に気を配っているようで、海沿いには、ずっと津波を防ぐための高い防御壁が連なっており、水路には巨大な水門がついていました。

志津川は、湾の真ん中にあるので、私は外洋を見るために、神割崎という岬に行きました。志津川には本数は少ないのですが、乗り合いバスがあり、そのバスで神割崎まで連れていってもらいました。これはバスといっても普通のバンで、お客さんも私ともう一人のおばあさんしかいないなど、完全に採算割れな感じのバスでした。地方に来ると、人口が少なすぎて、公共交通機関は採算が取れず、ほとんど全てが廃止され、だいたい車で移動するしかないものです。しかし、このような公共交通機関が曲がりなりに維持されていることは、大変ありがたいことだと思います。

神割崎は、大昔に浜に打ち上げられた鯨がどちらの村に属するかをめぐって、隣り合った村同士が揉めていたとき、岬の岩が真っ二つに割れ、村境の問題が解決したという伝説にちなんでつけられたそうです。こんな感じで、巨大な岩と岩の間が裂けているのですが、波が打ち寄せるとき、狭い隙間を通って波の高さが増幅されていたので、海が荒れたときには、さぞかし恐ろしいことになるのだろうと思いました。

この岬は、キャンプ場になっており、沢山のテントが張られ、主に家族連れの人々と若者たちがたむろっていました。私は、キャンプ場にある神割崎レストランで昼食を取ったのですが、大変込み合っていました。

私は、せっかくなので海の幸を食べようと、茹でホヤと神割崎ラーメンという蟹、ホタテ、カキ、各種海藻、エビの入ったラーメンを食べてみました。ホヤは、宮城では有名な食材で、赤くボコボコした外見をしている生き物なのですが、私は今日初めて食べてみました。私は、茹でホヤを持ってこられたとき、どのように食べて良いのか分からなかったので、相席していたご老人に食べ方を尋ねたのですが、グロい外皮を剥いて、中味を食べるとのことでした。食感は貝に近かったですが、妙に苦い味がしたのが印象的でした。

昼食を食べると、目的の海を眺めようと、岬を歩き回りました。岬の上からだと、松林があるので、木が邪魔をして、余り良く景色が見えないのですが、少々危険を犯して、眼前を遮るものがない見晴らしスポットを見つけたので、そこでのんびり海を眺めていました。

本日の目的は、何も考えないで、ぼーっと海を眺めることですので、特に何をすることもなく、波が岩に打ち寄せ、砕け、白い飛沫を上げるする様や、海底を透過している緑がかった水面がゆらゆらと揺れている様や、白みがかった青空が視界一杯に広がっている様や、遠ざかる毎に波が小さく見え紋様のように揺らめく沖合の広大な海面や、斜めに層を成している黒みがかった岩の威容や、岩や海底の高さやかたちによって渦を巻いたり、流れる方向を変えたり、窪んだり、隆起したりする水の流れなどを、延々と眺めていました。

視界一杯に広がる広大な風景、岩や松林など自然物の複雑なかたち、絶えずかたちを変えていく波や水面の動きの複雑さを眺めるは、大変脳に気持ちの良いものでした。やはり、日々単純なかたちばかり見ていると、脳に刺激がなく、だんだん鬱積がたまってくるのだろうと思います。やはり、たまには、このような複雑なかたちを眺め、脳をリフレッシュさせることが必要なのだと思います。

こうして、心ゆくまで太平洋の漠々たる風景を堪能した後は、再び志津川に戻りました。次の電車の出発まで2時間近くあったので、志津川近辺の海をさらに見て回りました。志津川には大きな港があり、そこには市場が付随しています。港には沢山の小型船が停泊しており、そのうちいくつかはイカ釣り漁船でした。さすがイカ釣り漁船だけあって、大きな電灯が沢山吊されていました。港では、多数の釣り人が、釣りを楽しんでいました。

港の近くには、カキを加工する加工所や釣具屋などがありました。個人的には、ホタテの殻が1メートルを優に越す高さに積み上がっていたことに驚きました。

港の先には、公園と海水浴場があり、その間に歩いて渡れる荒島という小さな島がありました。この荒島の入り口には鳥居があり、島の中心には神社がありました。この島は無人島で、観光化されていないので、木々が生い茂り見晴らしも全く良くないのですが、ちょうど夕暮れ時だったので、木々の間から斜めに差し込むオレンジ色の光が森を照らす様は大変綺麗でした。

荒島の脇には岩場があったので少し眺めたのですが、濡れた岩に反射する光や、オレンジ色の空を背景に逆光になった鳥居を眺めながら、岩に打ち寄せ波が砕ける音に耳を澄まし、涼やかな潮風を浴びるのは気持ちの良いことでした。

こうして、山の向こうに沈んでいくまだ少し高い夕日が、水蒸気でけぶる空と、もやで霞む対岸の山々を薄オレンジ色や薄紅色に染めていく中、海鳥が飛び交う様や家族連れの子供が走り回る様を眺めながら、のんびり駅へと向かいました。もう心ゆくまで海の風景を堪能して、本当に贅沢極まりないという気分でした。

ちなみに、腹が減ったので乗換駅の小牛田のキオスクで買った、カボチャ豆入りのみちのくせんべいが大変うまかったです。ドイツのパンに良く入っているかぼちゃ豆が、非常にサクサクして、風味が良く、ささやかな贅沢気分を味わうことが出来ました。