ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

東方正教から見た義認論

以下の論文を読んでみた。無料で読むことができる。

・鈴木浩「少し長めの前書き、あるいは、義認論をめぐる環境の変化」『ルター研究』9、2004年、5-19頁。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000991340

この論文は、現代の義認論をめぐる環境の変化を、三つの観点から概観したものだ。その三つの環境の変化とは、

1. 第二バチカン公会議後のカトリックルター派の義認論に関する対話の進行とその成果として『共同宣言』が出たこと。
2. 東方正教の教義を意識するようになったこと。西方のアウグスティヌス主義的な義認論とは異なる、正教の救済論的パラダイムがありえることを西方教会が認識するようになったこと。
3. 現代において罪認識が希薄化したこと。アウグスティヌスやルターの義認論の基盤は罪認識の深刻さだが、現代ではこのような罪意識はなくなっているので、義認論も脱アウグスティヌス的な環境の中に置かれるようになった。


この論文で面白いと思ったのは、義認論を東方正教の視点から見ようという視点があったことだ。アウグスティヌスの影響を受けていない東方正教から見れば、16世紀の宗教改革アウグスティヌス主義者の穏健派と急進派の内部闘争に過ぎないそうだ。

東方正教ではそもそもアウグスティヌスの影響がないので、アウグスティヌスの線上にある原罪論も奴隷意志論もなく、人間は本性を損なう自由を持っており、アダムやエヴァから人間が継承したのは罪ではなく死だと見なされていることは、鈴木先生が翻訳したメイエンドルフの『ビザンティン神学』新教出版社、2009年、224-230頁にも書かれている。

また、鈴木先生は、高校3年生の修学旅行で、教皇ヨハネス23世危篤のニュースを聞き、旅館でルーテル教会に通っていた他三人といっしょに教皇の命をもう少し延ばして下さいと祈ったそうだ。ルーテル派も、第二バチカン公会議に希望を持っていたことを示す例としてあげられているのだが、ほほえましい。