ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

おまえらは反キリストの手先だ

今日も文書館に行き、再洗礼派の審問記録を読みました。今読んでいるのは、ディオニシウス・フィンネ Dinonysius Vinne の審問記録です。彼は、いわゆる「ヴァッセンベルクの説教師」と呼ばれる、ミュンスター流入してきた説教師の一人で、ミュンスター再洗礼派運動の重要人物の一人です。そのため、彼の審問記録はかなり長く、審問官から74の質問をされています。

この審問記録はすでに刊行されているのですが*1、手書き文書を読む訓練を兼ねて、州立文書館でオリジナルと刊行史料を照らし合わせながら読んでいます。なるべく手書きの文字に慣れようと、ぐにゃぐにゃした文字を眺めながら読んでいるので、非常に時間が掛かります。

今日は授業があったので、2時間ほどしかいなかったのですが、1ページも読めませんでした。しかし、これは特別遅いというわけでもなく、中世低地ドイツ語の史料を読むときは、だいたいこれぐらいのスピードです。そのため、一向に先に進まないのですが、これは仕方がありません。

しかし、史料を読むことは楽しく、今日も興味深い記述を見つけることが出来ました。一つは、反キリストについての記述が出てきたことです。彼はこの審問の中で「幼児洗礼はキリストの命令ではなく、反キリストの命令によるものである。」と、カトリックプロテスタントの幼児洗礼を批判しているのですが、その際に反キリストという表現を使っています。ここから彼が、カトリックプロテスタントも両方反キリストだと思っていたことが分かります。

この史料では、反キリストは、Entechristus と表記され、これは現代のドイツ語に直すとEndechrist つまり「終末のキリスト」という意味になりますが、中世低地ドイツ語の辞書を見ると、Antichrist 反キリストの意味だそうです。

反キリストは、終わりの時に現れるという最大最悪のキリスト教徒の敵ですが、この言葉は、この時代、非常に頻繁に使われました。たとえば、ルターやプロテスタント神学者は、教皇カトリック教会のことを反キリストと見なし、多くのパンフレットで教皇を悪魔化して描いています。

彼らが反キリストという表現を使ったのは、もちろん彼らが、終末が間近に迫っていると信じていたからなのですが、同時に敵対する相手に対して貼ることができる最も酷いレッテルだったからでもあるでしょう。

この時代の文章読むと、自分と信仰を異にする人々を、反キリストや悪魔、異端などと罵倒することが、日常茶飯事だったことが分かります。カトリックプロテスタント、あるいは再洗礼派たちが、互いに敵を悪魔化していたのが宗教改革の時代でした。そして、このディオニシウス・フィンネも、その例外ではありませんでした。

*1:Cornelius, C. A. (Hg.), Berichte der Augenzeugen über das münsterische Wiedertäuferreich. Die Geschichtsquellen des Bistums Münster, Bd. 2, Münster, 1853. Neudruck 1965, S. 272-278.