ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ウィーンの文書館に行く

私は現在、ミュンスター再洗礼派統治期の人口構成を検証するために、人口構成に関わる全ての記述を検証しようとしています。これまで、個々の史料の数字を、厳密な史料批判に基づいて検証した研究はないため、私がやろうと思っています。

人口構成に関わる記述は、すでにデトマーやキルヒホフといった先人達が網羅的に集めてくれているので、すぐに元の史料に当たることができます。ミュンスター再洗礼派の史料は、ほとんど刊行されているので、刊行史料でほとんど用が足ります。

私は一度、修士論文で、これらの数字を原典に当たって確かめてはいたのですが、当時の私は、近世初期の都市の人口構成に関する一般的傾向について無知だったせいで、重要な点を見落としたりしていたので、今回もう一度検証することにしました。

その中で、以前から気になっていた記述があります。1534年3月末、つまり再洗礼派統治が始まって間がない頃の、武装可能な男性、つまり成人男性の数についての記述です。

基本的に一次史料から数字を集めていたキルヒホフが、唯一二次文献から採っていた数字が、この市内の武装可能男性の数字です。以前から不思議に思っていたのですが、自分で検証してみようとすると、何故彼が二次文献から数字を持ってこなければならなかったかが、すぐに分かりました。

この数字は、キューラーという研究者が書いた本の注*1から取っているのですが、このキューラーという研究者は、注に彼が使った史料がどのような史料で、どこにあるのかをきちんと書いていなかったのです。

彼が書いていたのは、彼はブリュッセルの国立文書館で史料を見たこと、そして彼が挙げた数字は、De Landvoogdes (執政、つまりハンガリーのマリア)が、1534年3月にミュンスター司教を援助する決定をしたことが書かれている史料に載っていることだけです。これだけでは、誰が書いたの、どのような史料にこの記述が載っているのか分からないので、探しようがありません。

そのため、困った私は、ブリュッセルの国立文書館の方に、キューラーの著作の該当部分の引用と共に、探索願いのメールを書きました。文書館員の方からは、丁寧なメールをいただきました。

彼は、ブリュッセルにあるハンガリーのマリアの手紙を探してくれたのですが、ブリュッセルの文書館の彼女の手紙のコレクションは、時系列的に整理されていないので、一部探すのが難しい部分もあり、見つからなかったのことでした。

しかし、ウィーンに彼女とカール5世の往復書簡のコレクションがあり、もしかするとそこにあるかもしれないということでした。

私がこのメールを受け取ったのは、ウィーン旅行が決まった後だったのですが、二度手間にならなかったので、大変幸運でした。そのため、私は、急遽他の人と別行動で、ウィーンでも文書館を訪れることにしたのです。

長くなったので、また明日書きます。

*1:Kühler, W. J., Geschidenis der Nederlandsche Doppsgezinden in de Zestiende Eeuw, Haarlen, 1932, S. 87. Anmelkung2.