ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ウィーンで文書を探す

昨日書いたように、私は目当ての文書を探すために、朝から文書館に出かけました。私は金曜しか文書館に行ける日はなかったので、時間を目一杯使えるように、開館時間の9時に出かけたのです。

ウィーンにあるオーストリア国立文書館は、幾つかの館に分かれていますが、私が行ったのは、Haus, Hof und Staatsarchiv です。入り口を入ると、受付のおばさんに呼び止められましたが、身分証である学生証を提示しただけで入れました。一回にロッカーがあるので、そこで上着や荷物を預け、筆記用具だけ持って上の階に上がります。

私は、閲覧室にいる文書館員の方に、事情を話し、キューラーの著作の該当部分や、ブリュッセルの文書館からの手紙を見せ、ハンガリーのマリアの手紙を探してもらいました。

私が閲覧室で待っていると、文書館員の方が、ハンガリーのマリアやカール5世、フェルディナンドの手紙の一覧が載っているリストや、史料集を何冊か持ってきてくれたので、それを見たのですが、残念ながらそれらのリストの中に1534年3月27日、あるいはその直後のハンガリーのマリアの手紙はありませんでした。

その後、わざわざ彼の上司であろう、年輩の文書館員の方も私のところにやっ  て来て、残念ながらウィーンには、私が探している手紙は存在せず、おそらくキューラーが書いたようにブリュッセルにあるだろうと説明してくれました。

しかしながら、ブリュッセルでも、その史料が、果たしてどこにあるのか皆目見当がつきませんし、困ったところです。キューラーは、すでに亡くなっているので、直接聞くわけにもいきませんし、今のところ該当史料を見つけるための良い案は浮かんでいません。

後でブリュッセルにも行ってみようとは思っているのですが、一つ懸念があります。それは、ハンガリーのマリアが、フランス語で手紙を書いているのではないかと言うことです。

ウィーンで見たフェルディナンドのマリア宛の書簡は、フランス語で書かれていましたし、彼女はどうもラテン語オランダ語でもなく、フランス語を主に使っていたのではないかという疑いがあります。私はフランス語は全然できないので、非常に困ります。

時間や労力を考えれば、自分の目で史料を確認せず、キューラーの記述をそのまま信用して、論文で使うのが合理的なのですが、やはり所在の分からない史料に基づいた記述は信頼性という意味で難があるので、できれば確認してから使いたいというのが正直なところです。

こういう些細な部分で多大な手間を掛けるのは馬鹿らしいと言えば馬鹿らしいですが、学問的な信頼性を支えるのは、このような馬鹿らしい非合理な探求であることもまた事実です。

とりあえず、もう少しこの史料の出所を、探して見るつもりです。