ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ニコルスブルクへの旅

ウィーンから、電車で約二時間ほどの、オーストリアスロバキアの国境付近に、ミクロフ(Mikulov)という小さな街があります。私が何故この街に行ったかと言えば、この街が、以前モラヴィア地方の再洗礼派の一大拠点だったからです。

ミクロフは、ドイツ名ニコルスブルク(Nikolsburg)と言い、代々リヒテンシュタイン家が治めてきた街でした。モラヴィアは、スイス、ドイツ、オーストリアと異なり、まだ宗教的に寛容な場所だったので、この地に各地から大量の再洗礼派が逃れてきました。

南ドイツのヴァルツフートという街から逃げてきた、バルタザール・フープマイアー(Balthasar Hubmaier)が、ニコルスブルクへやってきたのは、1526年のことです。フープマイアーは、インゴルシュタット大学で博士号を取った、再洗礼派には珍しい学識高い人物で、成人洗礼の擁護のために神学的な著作を著した、非常に重要な初期の再洗礼派指導者の一人です。

彼は領主公認の下、1526年ニコルスブルクで再洗礼派教会を設立しました。結局フープマイアーは、オーストリアによって捕らえられ、1528年にウィーンで火刑に処されることになりましたが、モラヴィアはその後もフッター派などの再洗礼派の拠点であり続け、再洗礼派の一大拠点であったことには変わりはありませんでした。


ミクロフ(ニコルスブルク)は、丘の上に作られた城塞を中心とした城下町です。この城塞は何度も改築したらしく、現在は、近世に改築されたバロック的な外観を保っています。この街の人口は、15世紀前半で2500人程度だったそうなので、おそらく旧市街は、城の建っている小さな丘周辺だけだったと思われます。

この城塞の中には、歴史博物館もあって、本当は見たかったのですが、この日はトラブル続きでミクロフに着いたのが博物館が閉まる直前だったということで、展示は見られませんでした。おそらく、フープマイアーに関する展示もあったと思うのですが残念でした。