ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

この国には何でもある。でも、希望だけがない。

そんな中、ドイツ語は頭が痛くて読む気がしないということで、村上龍の『希望の国エクソダス』を読んでいました。この小説は、ドイツに来てから、何回も読み返していますが、何度読んでもリアリティーがある小説だと思います。

この小説は、不況にあえぎ、閉塞した日本で、日本中の中学生が一斉に登校拒否を始め、ネットや市場を通じ莫大な資金を得て、北海道で独自の通貨を持った新しいコミュニティーを作るという話です。

この小説では、経済、金融が重要な役割を果たしていますが、だからこそ、グローバリズムが叫ばれ、90年代後半以降急速に変化していった日本の社会とそこに生きる人々の不安を見事に描き出していると思います。中学生絡みの部分は、やはり純然たる作り事と言うことで、リアリティーはありませんが、彼らを取り巻く日本の社会について描いた部分は、非常にリアリティーがあり、いつも暗澹とした気分にさせられます。

ただ、社会全体に閉塞感が蔓延しているというのは、日本だけではなく、ドイツでも同じです。現在のドイツは、最も経済が酷かった時期の日本を思い起こさせるような酷い状況にあり、高い失業率、国内のデフレ、低い経済成長率、初等教育の機能不全、階層の二極分化、国の税収の減少と負債の増大、社会保障の削減などの問題を抱え、従来の社会民主主義を捨て、新自由主義的な方向に大きく舵を取ろうとしているところです。

本屋に行けば、「ドイツはもう駄目だ」みたいな本が沢山並んでいますし、労働市場や経済は一向に改善される見込みがなく、フランスやオランダのEU 憲法拒否で、ヨーロッパ統合や統合通貨ユーロに対する疑念も吹き出すなど、本当に閉塞している感じで、一頃の日本を思い起こさせます。このような閉塞感あふれる環境に身を置いていると、、たとえ異国に身を置いていても、この小説にはリアリティーを感じるわけです。

この小説のクライマックスは、円が投機筋に狙われ、暴落し、国が破産するかもしれないという重大な局面で行われた、中学生グループASUNARO の代表者ポンちゃんの国会での演説でしょう。ポンちゃんは、この国会での演説で、こう言ってのけます。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」

個人的には、この台詞が書かれたという時点で、この小説は、今の日本、あるいは、もしかすると資本主義先進国に蔓延している気分を、最も適切に掴まえたのではないかと思いました。

日本でも、『希望格差社会』という本が話題になったとネットで読みました。私はこの本を読んでいませんが、日本で経済的な格差だけではなく、希望を持てるような状況にあるかどうかという条件の格差も広がっているという内容だと聞いています。これも、貧富の差が拡大し、その拡大が子供の親の文化資本と結びついていると指摘されているドイツにも当てはまることだろうと思います。

現在の社会に希望があるかというと、少なくとも、すでにある程度豊かになってしまった資本主義先進国には無いのではないかと思います。日本人もその多くは、物質的な豊かさを過去にそれなりに経験しており、お金が沢山あったところで、それが個人的な幸福に直結するわけではないことぐらい分かっています。

不況が深刻化するに連れて、お金を稼がねばならないという脅迫感が社会全体に蔓延してきていると思いますが、これは積極的にお金が欲しいと言うことではなく、お金がないということに起因する悲惨を避けたいという消極的な理由からだろうと思います。もちろん一方で、ストレートにただお金が沢山ほしいという人もいるし、現在の社会では、そのような直接的な欲望の発露は、むしろ肯定的に捉えられてさえいるのではないかとも思いますが、そういう人は、それほど多いわけではないのではないでしょうか。

個人が自分を動機付けることが出来る対象は、すでに千差万別になって、お金で一元化できるものではないにもかかわらず、お金を稼ぐという行為を回避したかたちで、その対象に接近することは出来ないということで、そこで個人と社会の齟齬が必然的に生じるように思います。

もちろん、人間は希望が無くても生きていけるわけですし、希望が社会秩序の維持や経済成長率にどの程度影響しているのかも良く分からないでしょう。(これは、経験主義的方法論で実証できるテーマではないでしょうから)

もしかすると、希望が無くても、国や社会の秩序や経済的な繁栄は、それほど問題なく維持できるのかもしれません。ただはっきりしていることは、希望がない社会で生きることは憂鬱だし、希望を持たない個人が生きていくことは味気ないということです。

この小説の「この国には何でもある。だが、希望だけがない。」という台詞は、今の社会の閉塞感と、苦み走った味気なさを見事に表しているなと思います。後代の歴史家が、西暦2000年前後の変動期の人々の気分を端的に表現したいときは、この台詞を引用すれば良いのではないかと、私は思います。


体調が悪いと言いながら、結構長い文章を書いてしまいましたが、こういう軽い文章は案外書いていて疲れないものだと思います。