ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

フリースラントへの旅。

研究を再開し、頻繁に脇道に逸れながら、史料をどんどん読んでいるのですが、またそろそろ旅に出なければならないので、平行してその準備もしています。正直、全く旅行をしたいという気分ではないのですが、こちらにいるうちに色々回っておかないと、後で後悔しそうなので、半ば仕方なく出発するという感じです。

今回行くのは、オランダとドイツの北海沿岸のフリースラントです。フリースラントには、目立った大都市もなく、北海沿岸の島でバカンスする以外には、特に観光地もありません。おそらく、日本人で、フリースラントと聞いて、どの辺りか分かる人は珍しいのではないかと思います。

私が何故フリースラントに行くかというと、当然の事ながら、フリースラントが再洗礼派の一大拠点だったからです。再洗礼派統治がミュンスターで始まった後、フリースラントから多くの再洗礼派がミュンスターにやって来ましたし、ミュンスターからの呼びかけに呼応して、修道院を占拠してハプスブルクの軍隊と戦ったのも、フリースラントの再洗礼派たちです。フリースラントは、ある意味、アムステルダムやライデンのような大都市以上に、ミュンスター再洗礼派と密接な関係があったところなので、再洗礼派にまつわる史跡名所を回ろうと思っています。

オランダとミュンスターを結ぶ交通の要所にして、ミュンスターアムステルダムと並び、神に選ばれし聖なる都市と目されていた再洗礼派の重要拠点Deventer (デフェンター)、1534年復活祭に下される神の罰を免れるべく、新しきエルサレムであるミュンスターへ向かおうとした膨大な数の再洗礼派が集ったBergklooster (ベルヒクロースター)、神の命を受け、旧約聖書のヒロインであるユディトを模して、ミュンスター司教を暗殺するために一人死地へ赴いた女性ヒレ・ファイケンの故郷Sneek (スネーク)、ミュンスター再洗礼派をはじめとする武装派に反対し、ミュンスター占領後再洗礼派の指導者になったオベ・フィリップスの故郷にして、フリースラント屈指の大都市Leeuwarden (レーウワルデン)、北方再洗礼派の父祖メルキオール・ホフマンによって始めて成人洗礼が導入された、オランダ、北ドイツ再洗礼派生誕の地Emden (エムデン)、ミュンスター占領後敗残の再洗礼派が移住し、絶望的な状況の中で再起を賭けたOldenburg (オルデンブルク)、どの地も、ミュンスターやオランダ再洗礼派の歴史に深くその名を刻んだ場所ばかりです。

ただ、史跡名所と言っても、特に何があるというわけではないでしょう。上述の反乱拠点となった修道院も、すでに1571年に破壊されてしまったそうですし、再洗礼派縁の都市に行っても、おそらく何もないでしょう。しかし、何もないと分かっていても、再洗礼派たちが生死を賭けて活動した舞台を、この目で見たいと思うのです。たとえ何もないと分かっていても、一度は訪れなければならないという切迫を感を感じるのは何故なのかは分かりませんが、様々な再洗礼派たちの冥福を祈るが如く、聖地巡礼の旅に出かけようと思います。