ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

デフェンターの殉教者Fenneke van Geelen

この間の旅で、一番最初に訪れたのはオランダ内陸にある都市Deventer(デフェンター)です。この街は、元ハンザ都市で、商業の街であり、同時にDevotio Moderna が盛んであり、エラスムスも学んだラテン語学校が人文主義の牙城になるなど知的にも重要な都市です。

デフェンターは、元市長のような市の有力者も再洗礼派になるなど、再洗礼派の重要な拠点でもありました。しかし、ミュンスターの再洗礼派の使徒がオランダを飛び回り、反乱を計画しているということで、1535年初頭デフェンターでも再洗礼派の検挙、死刑が行われました。

この時期処刑された再洗礼派の中に、一人Fenneke van Gellen (フェネケ・ファン・ゲーレン)という女性がいました。この女性は、デフェンターからミュンスターへ赴き、オランダの再洗礼派を動員するための使徒として暗躍したJan van Geelen (ヤン・ファン・ゲーレン)の妻です。夫が外に出て、活動していたにも関わらず、彼女は、デフェンターに残り続けて、夫の指示に従い、再洗礼派を家に匿ったりしていました。しかし、彼女は当局に捕まり、おそらくは彼女自身と言うよりは、夫の罪のために、デフェンターの脇を流れるIJssel (エイセル川)に沈められ、溺死させられました。

時は流れ、500年ほど経った今日、かつて悪魔のような反乱者と危険視され、迫害されていた再洗礼派も、信仰の自由のある現在の社会では、数ある宗派の一つに過ぎなくなりました。そのため、フェネケも、神に教えに背いた者としてではなく、自らの信仰に殉じた殉教者であるという考え方も可能になりました。

そのため、現在デフェンターで最も大きな教会であるGrote of Lebuinuskerk で、1992年描かれた壁画に、フェネケの姿も描かれました。新エルサレムをモチーフにした絵の中で、アブラハムなどの錚々たる面子に並び、彼女の姿が、名前と共に描かれています。

デフェンターでは、他にも再洗礼派が処刑されていますが、何故彼らではなく、フェネケが描かれたのかを想像すると、多分彼女が女性だったからだろうと思います。基本的に、女性は、男性と比べ、かなり寛大に使われるのが普通であり、彼女達が処刑されることは余りありません。にもかかわらず、彼女は、自分の信仰の撤回を拒み、己の信仰に殉じたと言うところが、興味を誘うのでしょう。

ただ、彼女自身の信仰については、良く分からないところが多いです。先ず、夫のヤンと共にミュンスターに行かなかったのは何故か良く分かりませんし、そもそも彼女が成人洗礼を受け入れたのは、夫の指示があった1535年2月という非常に遅い時期です。私は審問記録を読んでいないので何とも言えませんが、彼女が、熱狂的な再洗礼主義の信奉者だったと言って良いのかどうかは、良く分からない部分があります。

以前ヤンとフェネケが住んでいたLange Bisschopstraat という通りは、昔から現在まで、デフェンター市内で最も活気のある目抜き通りで、彼らはかなり裕福であったことが伺えます。彼らが住んでいたと推測される通りの終わりの角は、現在ニシンなどを売る魚屋さんになっており、私は買い物客でごったがえする通りを見ながら、フェネケたちが、以前この場所で生活を営んでいたことを想像するのでした。