ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ヒレ・ファイケンのお父さんは日雇い労働者。

この間、フリースラントを旅しましたが、この旅の一つの目玉は、ヒレ・ファイケンの生地を訪れることでした。彼女は、神から啓示を受け、旧約聖書のヒロインであるユディトを模して、ミュンスター司教を暗殺しに行った女性です。彼女のこの特異な行動も興味深いのですが、より重要なのは、彼女が、ミュンスターにいた再洗礼派女性で唯一審問記録が残り、個人の来歴や状況が分かることです。

彼女は、西フリースラントのLeeuwarden(レーウワルデン)近くの小さな村Wirdum (ヴィルドゥム)で生まれ、彼女がミュンスターへ赴く前は、Sneek (スネーク)という小都市に親と共に住んでいました。

私は、この旅では文書館に訪れるつもりはなかったのですが、スネークのユースホステルで、ヒレ・ファイケンの父親について考えているとき、もしかすると文書館に、彼女の父親の名前が載っている史料があるかもしれないと思い立ち、突発的に文書館に出かけました。

正確に言えば、スネークには独立の文書館はなく、市庁舎の中に、文書を保管する部屋があるだけです。市庁舎や文書館の方の対応は、非常に丁寧で、何のアポも取らず突然訪れた、オランダ語を喋れない胡散臭い東洋人に、最大限の便宜を図ってくれました。

私が、スネークで探したのは、スネークの租税台帳、日雇い労働者の賃金表、あるいは市参事会の支出に関する記録です。

ヒレ・ファイケンの父親は、スネークで働く日雇い労働者でした。ヒレは、家にはチーズやバターが一杯あったと証言しているので、食うに困ることはなかったようですが、何分日雇い労働者だったので、裕福なはずはありません。それでも、おそらく租税を払える程度には、稼いでいたはずなので、もし租税記録が残っていれば、彼の名前と納税額が分かり、そこから彼の財産も分かるはずです。

また、もし市参事会が、日雇い労働者を雇い、彼らへの支出を記録していたら、ヒレの父親の名前が出てくる可能性もありますし、彼の職種も分かります。ヒレは、父は日雇いだったとしか言っておらず、建築労働者だったのか、港湾労働者だったのか、農業労働者だったのか分かりません。もし、租税記録や日雇い労働者への支払い記録があれば、ヒレの家庭の事情が、より詳細に推測できることになります。

結果から言えば、今回の文書館訪問では、何も成果は上がりませんでした。やはり、小さな街だからか、16世紀になると史料がほとんど残っておらず、唯一残っていたのは、1517年6月23日から始まる市民の名簿だけです。この市民名簿に載っているのは、極わずかな人数だけで、1531年の名簿には、たった128人の名前しかありません。

スネークの人口が推定できるのは、ようやく17世紀以降で、それ以前の人口は全く不明です。中世末、近世初めの人口は、文書館員の方によれば、2000人くらいではないかということでした。仮にこの数字が正しいとすれば、おそらく市内には、6〜700人くらいの成人男性がいたのではないかと推測できます。いずれにせよ、大半の男性は、市民権を持っていなかったことが分かります。ヒレの父親は、日雇い労働者ですから、当然市民権を持っているはずがなく、彼の名前はこの名簿には出てきません。

私は、租税台帳ぐらいはあるのではと、かなり期待していたのですが、租税台帳も17世紀以前は全く存在しないようです。文書館員の方の話では、スネークは特権を持つ自由都市で、都市の領主に租税を納める必要はなかったので、租税台帳は残っていないということでした。市参事会が、独自に租税を徴収したことはあったのではないかとは思うのですが、いずれにせよ、租税台帳が残っていないことには変わりがありません。

一応、1612年から1803年の市民名簿をまとめた冊子Sneek Burgerboek (1612-1803), 1993. の中には、Feike という名字の市民が5人ほど載っていますが、何分17世紀の名簿ですので、ヒレの家系と関係があるかどうかは、全く不明です。

結局何の成果も上がらず、無駄足だったわけですが、文書館で史料を見せてもらい、調べものをしている時が、旅の間で一番楽しかったので、行って良かったです。

ただ、旅をしたことが無駄だったかというと、そんなことはありません。たとえば、私は、ヒレが生まれたヴィルドゥムを訪れたのですが、それで分かったのは、彼女が生まれたのは農村だったことです。もちろん、現在と16世紀では集落の状況が大きく変わっているはずなので、早急な判断は慎まなければなりませんが、ヴィルドゥムはほぼ間違いなく、堀はあったかもしれないが、城壁までは作られなかった、純然たる農村、あるいは限りなく農村に近い小都市だったと推測できます。

そのため、ヒレの父親は、おそらくこの農村で、農業労働者をやっていたのではないかと推測できます。ヴィルドゥムの近くには西フリースラントの中心都市レーウワルデンがあるので、ヴィルドゥムでは手工業は禁じられていたのでしょうし、川沿いでもないので、港もなかったでしょうし、農業以外は仕事がありそうにありません。

現在のヴィルドゥム周辺は、ほとんど全て牧草地で、畑はわずかしかありません。16世紀当時も牧畜中心だったかどうかは、残念ながらまだ調べていないので分かりません。この辺の土地は、非常に水はけが悪く、一度雨が降ると、なかなか土が乾かないようで、素人目には、余り畑に向いた、地味に富んだ土地には見えませんでした。ただ、私は、近世オランダの農業や農村について良く知らないので、当時も牧畜中心だったのか、畑作中心だったかは推測できません。

いずれにせよ、もしヒレの父が土地を持っていれば、その後スネークに移住する必要はなかったでしょうから、ヒレの父は、農業労働者だった可能性が高いのではないかと思います。

あるいは、ヒレの母の兄(あるいは弟)が商人をやっていたようなので、ヒレの父も小規模な商人をやっていたという可能性もないことはないと思います。ただ、これについては、全く検証のしようもなく、分からないとしか言いようがありません。

ヒレの一家は、その後ヴィルドゥムからスネークに移り住んだわけですが、何故、そしていつ頃移り住んだかは不明です。もしかすると、1530年代前半のオランダの経済危機と関係があるのかもしれませんが、推測する糸口すらないので、全く分かりません。

ヒレの父親の当時の年齢は、最も若く見積もっても40才は過ぎていたと思われます。近世では、階層の低い住民はなかなか結婚ができず、晩婚傾向にあったようなので、ヒレの父も、若いうちに結婚できたとは考えにくいです。ヒレはまだかなり若いようなので、おそらく20代初頭ぐらいで結婚が出来たのではないかと推測できます。となると、1534年当時で50才前後だったというのが、妥当な線かなと思います。いずれにせよ、ヒレの父親は、そろそろ社会的な地位を確立するような年齢で、日雇い労働者に甘んじていたことは間違いがなく、日雇い労働者で一生を終えたのだろうと思います。

いずれにせよ、ヒレの一家については、不明なことが多いのですが、今後細部を再考していく際に、現地に行って、街並みや周辺の土地を見たことは、大きな助けになることでしょう。そのため、研究の時間を削ってでも、一度は再洗礼派縁の地は、訪れねばならないと、聖地巡礼に赴いてしまうのです。