ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ベルンハルト・ロートマンの生まれた街Stadtlohn

ミュンスターはすっかり寒くなってしまいましたが、このところ雲一つないような快晴が続いているので、ミュンスターラントの小都市を回っています。今日は、ミュンスター宗教改革運動、そしてミュンスター再洗礼派の中心的神学者であるBernhard Rothmann (ベルンハルト・ロートマン)が生まれた街Stadtlohn (シュタットローン)に行ってきました。シュタットローンは、ミュンスターラント西南に位置する、鉄道の駅もないような小都市です。もう少し西に行くと、すぐにオランダ国境に達します。ミュンスターからは、バスでHorstmar やSchöppingen を抜け、Ahaus まで行き、そこでバスを乗り継ぎたどり着きます。交通の便が余り良くないので、ミュンスターからは、2時間ほど掛かります。

街自体は、極普通のドイツの小都市で、街の中心に教会と市庁舎があり、その周りに小綺麗な商業地区があり、その外に新興住宅地が広がっています。しかし、人口は2万人程度なので、市街区は広くありません。シュタットローンも、第二次大戦中の爆撃で旧市街は壊滅し、教会も破壊されたそうなので、古い街並みは全く残っていません。

ドイツは、小都市に行っても、たいてい第二次大戦中に教会が破壊されて、戦後再建されているので、第二次大戦の連合軍の爆撃が、どれほど執拗で、徹底したものだったかを、いつも思い起こさせられます。

ちなみに、第一次大戦や第二次大戦の戦没者を祀った慰霊碑が、たいていの街にあり、シュタットローン、あるいは帰りに寄ったAhaus (アーハウス)でも街中に慰霊碑がありました。アーハウスには、迫害され犠牲になったユダヤ人の慰霊碑もあり、ドイツの傷を今に伝えています。

ツーリスト・インフォメーションが閉まっていたので、市庁舎に行って、職員のおばさんにロートマンについて知っているかときいてみたところ、彼女は、再洗礼派は知っているが、再洗礼派とこの街に関係があったとは知らなかったと言っていました。しかし、この街にも文書館があるので、そこの文書館に行って聞いてみたらと紹介してくれたので、試しに行ってみました。

文書館があるのは、街の中心部からやや離れたところで、教えてもらわなければとても気づかないようなところでした。そこで、少し文書館員の方とお話をさせていただいたのですが、シュタットローンにロートマンに関する記念碑などはないそうです。やはり、ミュンスター再洗礼派は、一般的には未だに悪党だと思われ、イメージが悪いからなのでしょう。

また、文書館の方の話では、ロートマンがシュタットローンで生まれたという決定的な証拠はないのだそうです。シュタットローンには、1485 年のWillkommschazung (司教が新しく就任する時に領民が収める歓迎税)の名簿が残っているのですが、この名簿の中にRothmann という名字はありません。そもそも、シュタットローン周辺では、Rothmann という名字は珍しいので、元々の名字はたとえばRott などで、ミュンスターに行ったときに、ミュンスター周辺でRothmann と呼ばれるようになったのではないかと言うことでした。しかし、それらしい名字も名簿にないし、もしかすると、周辺の違う地方の出身かもしれないと言うことでした。

また、ロートマンがDeventer やAlkmaar などのオランダの都市の学校に行っていたので、このようなことは普通だったのかと聞いたところ、この地方のオランダとの関係は非常に密であり、言葉も大きな問題にならなかったので、学生や職人の行き来はかなりあったという話でした。

また、5年前にシュタットローンの歴史に関する大部の本が出版され、その中にロートマンに関する論文も収録されていると言うことでした。私はこの論文の存在を知らなかったので、後でコピーするためメモをしようとしていると、文書館員の方は、なんと無料でこの本を私にくれました。約600ページで、上等なコート紙を使い、カラー印刷のページも多い、かなり高そうな本なので驚きました。

Auf dein Wort hin. 1200 Jahre Christen in Stadtlohn, Stadtlohn, 2000.

ただ、編纂したのがDie katholische Kirchengemeinde St. Otger (聖オトガーカトリック教会共同体)で、カバーにはISBN は付いているものの、バーコードが付いていないので、元々図書館や関係者に配ることしか想定していない非売品なのかもしれません。この本には、ロートマンの論文だけでなく、前述の司教歓迎税、また巡礼についての論文もあったので、かなり面白そうです。しかし、ドイツでは、小さいな都市でも、このような包括的な歴史書が平気で出版されているので、こちらの郷土史の層の厚さを思い知ります。

また、シュタットローンには、街から少し離れたHilgenberg (ヒルゲンベルク)という丘に、17世紀以来の巡礼地であるマリア礼拝堂があるようなので行ってみました。市庁舎では、ちょうど今、この礼拝堂への行列についての展覧会が行われており、シュタットローンのみならず、ミュンスターラントの行列についての知見が得られました。

面白いと思ったのは、ミュンスターラントで巡礼のための行列が盛り上がったのは、17世紀後半以降だということです。近隣のプロテスタントカルヴァン派領邦に対し、内部の地固めをするため(ミュンスターラントはカトリックにとどまっていました)、領主であった司教が積極的に援助を行ったことが、そのきっかけだったようです。この時代が、所謂Konfessionarisierung (宗派化)の時代だったことを、思い起こさせられます。

ヒルゲンベルクの礼拝堂は、17世紀初頭からすでにローカルな巡礼地になっていたようですが、巡礼地として有名になるのは、1704年に司教Friedrich Christian von Plattenberg が礼拝堂を作り直させ、1739年立て続けに巡礼者の病の奇跡的治癒が生じてからだということです。この奇跡によって、ヒルゲンベルクの礼拝堂は、Telgte に次ぐミュンスターラントの巡礼地になったそうです。

現在、この礼拝堂は郊外の住宅地の真ん中にあり、あまり巡礼地という雰囲気ではありませんが、現在も、年に数回、礼拝堂への行列が行われているそうです。