ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ブリュッセルでの史料探しの際のメモ

ブリュッセルの国立文書館のハンガリーのマリア、あるいは外交関係の史料は、テーマと年代別に整理されています。たとえば1530-1560年のドイツ諸侯との書簡という具合です。年代の幅はまちまちで、数年の文書がまとめられている場合も、100年ぐらいの文書がまとめている場合もあります。私は、1534年が含まれているコレクションは虱潰しに見て回りました。

私は、全部で軽く数千の手紙は見ましたが、その内で1534年の手紙は数十しかありませんでした。数えたわけではないので印象論になってしまいますが、1535年になると一気に数が増え、時代が下るほど爆発的に史料の数が増えるという感じを受けました。それでも、16世紀の史料はまだかなり少なく、17世紀以降になると、史料の数がさらに格段に増えるようです。

1534年までの史料が少ないのは、おそらくブリュッセルハプスブルク家の行政都市になって間がなかったからなのでしょう。ハンガリーのマリアが執政に地位に付いたのは1530年、ブリュッセルに国事評議院、内務評議院、財務評議院が置かれるのは1531年です。

また、1534年の手紙の中で再洗礼派について触れているのは、たった4通です(訂正:正確には5通でした。また、1534年の手紙でも、年末のものはかなり大雑把に見たので、その中に再洗礼派に関する記述が含まれていた可能性も否定できません)。それを見て、私は、再洗礼派の問題は、ハプスブルク家にとって、全く重要な問題ではなく、余り関心がなかったのではないかと思いました。

そもそも、1534年2月にミュンスター司教によるミュンスター包囲が始まったとき、周辺の諸侯は、戦争はすぐに司教の勝利で終わると思っていたらしく、ずっと援助を渋っていました。そのため、戦費調達に困り果てたミュンスター司教は、ドイツ北西部をめぐるハプスブルク家とドイツ諸侯(カトリックプロテスタント両方を含む)の対立、またカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の対立を巧みに利用して、全方位外交して資金を調達しなければなりませんでした。

当時は、オランダでも再洗礼主義が広まっており、1534年3月にはミュンスターに赴くために1万人とも言われる人々が集結するなど、大きな事件も起こっていました。そのため、もう少しミュンスターやオランダ再洗礼派の話題が出ても良いのにと思いました。ハプスブルクの王族間の手紙で、ミュンスター再洗礼派がどの程度、たとえば全書簡の何%で話題にされているかを調べれば、帝国レベルにおける再洗礼派の受容史として、面白い研究になるだろうと思いました。

2000年代に、ミュンスター再洗礼派運動がどのように受容されたかを扱った研究が相次いで登場しました。そのうちの一つは同時代の諸侯や諸都市の反応を扱ったHaude, Sigrun, In the Shadow of „Savage Wolves“: Anabaptist Münster and the German Reformation During the 1530s, Boston, 2000.です。ただ、この本では、ハプスブルク家の反応については、二次文献を参考にした目新しさに欠ける記述しかされていなかったので、ウィーンやブリュッセルの文書館にしばらく籠もれば、新しい視点で論文が書けそうです。私自身が書く予定は全くありませんが。

では、どのような手紙が多かったかと言えば、何分私は日付以外にはほとんど気を払わなかったので分かりません。ただ、様々な諸侯と並び、ハンブルクブレーメンリューベック、ケルンなどとの諸都市とも、結構手紙のやり取りをしていたことは目に付きました。オランダと言えば、16世紀初めには、ハンザ同盟と揉めに揉めていたのですが、何のやり取りだったのでしょうか。

また、ハンガリーのマリアは、基本的にフランス語で手紙を書いていました。しかし、相手に合わせ、オランダ語、ドイツ語、さらにラテン語でも手紙を書いていました。もちろん、手紙の字体は非常に様々なので、彼女が自分で書いていたわけではなく、書記が書いたのでしょう。しかも、その書記も、一人や二人ではなく、かなりの数がいたのだろうと思います。当時の各諸侯の宮廷、あるいは大都市の市参事会には、多言語を操る、多数の書記がいるのが普通だったのでしょう。

また、驚かされるのが、当時飛び交っていた手紙の量の多さです。低地地方の行政の中心地だったブリュッセルには、手紙や使者によってヨーロッパ中から膨大な情報や問題が集まり、ハンガリーのマリア、あるいは彼女の役人が、その膨大な情報を処理し、判断を下し、再び膨大な手紙を返すということが行われていたと言うことを実感させられました。

そもそも、ハプスブルク家は、スペイン、低地地方、ドイツという広大な領土を治めていたので、まともに統治を行うには、手紙や使者による巨大な情報ネットワークが必要だったはずです。互いに非常に離れたところに住んでいたカール5世、フェルディナンド、マリアは、互いに膨大な手紙を交わしながらコミュニケーションをとっていたわけで、当時の人や情報のネットワーク、そして情報処理能力も、かなり凄いものがあったのだと思わされました。