ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ブリュッセルでの史料探し

先週の水曜日から土曜日まで、ブリュッセルに滞在していました。目的は、もちろん観光ではなく、史料探しです。以前かなり前にウィーンの文書館でも探したキューラーが言及していた史料を探すために、彼が当該の史料を見つけたと言うブリュッセルの国立文書館Algemeen Rijksarchief Brussel で史料調査を行いました。

キューラーは著書の中で、1534年3月27日にオランダの執政(ハンガリーのマリア)が、再洗礼派の戦闘可能男性の数を800人から900人だと言及していると書いています。この時期の戦闘可能男性の数を伝える史料はこれしかないために、ミュンスターの人口構造について言及する場合、必ず触れなければならない重要史料なのですが、彼が文書館のどこにあるかを書かなかったため、現在行方が分からなくなっています。

私は、再洗礼派時代のミュンスターの人口構造について調べており、すでに手書き文書含めて、史料の中に出てくる数字には、全て目を通しましたが、最後に残ったのが、この記述です。本来は、このような史料調査は、ドイツ人やオランダ人がやるべきことで、日本人の私がやることではないと思うのですが、他の研究者はキューラーの記述の孫引きで済ませてしまっているため、今回私が史料調査をする羽目になりました。

私は、長い間ブリュッセル行きを躊躇していました。しかし、先日もう一度文書館にメールを書いたところ、マリアとドイツの諸侯や都市間で交わされた手紙を集めたコレクションがあるので、もしかするとその中にあるかもしれないという返事を頂いたので、仕方なく確認しに行こうとブリュッセルまで赴きました。
ヨーロッパの文書館の例に漏れず、ブリュッセルの国立文書館も誰でも自由に利用することが出来ます。利用する際には、まず最初に身分証明書を提示し、名前や住所、所属などを所定の用紙に記入し、利用者カードを作ります。ただ、ブリュッセルの文書館は、他と異なり、利用する際にお金を取ります。私は一週間限定の利用者カードを作ったのですが、5ユーロを取られました。

私は予め、メールのやり取りをさせていただいていた文書館員の方に連絡をしていたので、彼に色々と助けてもらいながら史料を探しました。ブリュッセルの文書館員の方は、フランス語以外は、余り出来ない方が多いようでしたが、私の相手をしていただいた方は、ドイツ語ができたので助かりました。一応、何人かはドイツ語ができる方もいました。そのため、文書館では、フランス語、オランダ語、英語、ドイツ語のいずれかが話せれば、コミュニケーションに問題はないと思います。

この文書館では、史料を依頼するときに、コンピューターで申し込みをします。先ず、カタログで史料の種類、番号を探し、自分の利用者番号といっしょにコンピューターに打ち込みます。すると、しばらくして、文書を置く棚に、史料がどさっとやって来ます。

ちなみに、大量の史料が届くと、史料を無造作にどさどさと重ねて置いていたのには驚きました。紙の束は重いので、あまり無造作に幾重にも重ねると、紙が曲がったり、折れたりして傷まないのだろうかと思うのですが、そういうことは気にされていないようです。

史料は、ミュンスターの文書館と同様に、紙の表紙の間に、バラバラの紙の束が重ねてあるかたちでやってきます。紙の束にはそれぞれ番号がふってあります。基本的には重ねてあるだけなのですが、いくつかの史料は、製本され、表紙が付けられ、綴じられていました。ただ、16世紀の古い紙ですし、史料の大きさもバラバラなので、製本した場合、かなり紙が傷みやすくなるようでした。それを見て、ただ重ねるだけの方が、史料の状態の維持という意味では優れているのだと思いました。

文書館の方の話によれば、ハンガリーのマリアの手紙のほとんどは、18世紀末にウィーンに移されたそうです。おそらく、80〜90%は、ウィーンにあるだろうと言うことです。ブリュッセルに残されたハンガリーのマリア関係の史料は、現在まできちんと整理されていないようです。ウィーンの史料は、すでに何月何日に誰宛てに出した手紙なのか分かるほど、きちんと整理されているのですが、ブリュッセルの史料は、テーマ別におおまかな区分がされており、時系列的に整理されていないものも残っています。また、カタログでは、日付で史料を探すことが出来ません。

ウィーンの文書館では、史料が整理されていたために、カタログや史料集に目を通すだけで作業が終わったのですが、ブリュッセルでは、可能性がありそうな史料のコレクションを、片っ端から見なければならなかったため、膨大な時間が掛かりました。そのため、4日間、ひたすら膨大な史料を、眺め続けることになりました。

私は、どこにあるか分からない史料の中から、目的の史料を探し出さなければならないと言うことで、ひたすら膨大な史料を目を通しました。とは言っても、私は手書き文書は良く読めないですし、史料の内容には全く注意を払いませんでした。私が探しているのは、1534年3月27日の文書だったので、その日付だけに注視していました。ただし、一応1534年の史料は全てチェックし、再洗礼派関係の記述がないか確認を行いました。

私が見た史料は、Audience 48, 52, 63, 67, 69, 94, 128 (以上カタログT109), 1521, 1525, 1583-84 (カタログT110), 1669-1, 1669-2, 1641a (カタログT105) と、Duitse Staatssecretarie 88, 696, 758 (カタログI074) です。

このうちの4つの史料には、ミュンスター再洗礼派に関する記述が含まれていましたが、残念ながら、私が探していた史料は見つかりませんでした。一応、1534年3月27日のマリアの手紙はあったのですが、(フランス語で書いてあり、内容が分からないので断言できませんが)再洗礼派に関する言及はありませんでした。

私は、文書館の方が可能性があるのではないかと指摘して下さった史料には、とりあえず全て目を通したのですが、残念ながら見つかりませんでした。もちろん、手書き文書が良く読めない私が探したので、見落としがあったという可能性を完全に否定できないのですが、基本的には、キューラーの使った史料は、完全に行方不明の状態で、今後史料の整理が進まない限り、見つけるのは不可能に近いと言わざるを得ません。

膨大な労力と時間とお金をつぎ込んだ割には、目的の史料は見つからず、徒労感を感じざるを得ませんでしたが、やれることを全てやって駄目だったのだから、仕方がありません。ミュンスター州立文書館とは異なり、ブリュッセル国立文書館では、個人が史料を自分で写真撮影しても良いので、一応再洗礼派関係、また1534年春の史料は撮影してきました。目的は果たせませんでしたが、これらのささやかな成果で、良しとしなければなりません。