ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

外国で外国人は、異なった条件の下で生きる。

私は現在日本の大学を休学し、ミュンスター大学に留学しています。私はこちらで博士号を取るつもりは無いので、大学入学の際に義務づけられているドイツ語試験(DSH)を免除してもらいました。日本人は、こちらの大学で修了する気がなければ、語学試験を免除してもらい、いきなり大学で勉強し始めることが出来ます。そのため、ミュンスター大学で学んでいる日本人学生の中には、語学試験を免除してもらって勉強している人が結構います。

私が、ある韓国人の博士課程の学生にこのことを話した時、「アンフェアだ!」と言われました。何故かというと、韓国人学生は、日本人学生のように語学試験を免除されることは(彼らの言によれば)ありえないからです。

また、日本人学生は、日本の大学の入学試験に合格しており、ある程度の時間ドイツ語を勉強しているという証明書を出せば、すぐに大学の入学許可がもらえます。しかし、韓国人は、大学の学士を取ってからでないと、入学許可(正確には、大学ではなく、語学試験対策のための語学コースへの入学許可)をもらえず、Studienkolleg という大学入学のための予備学習を行う学校に通わなければなりません。そのため、韓国人学生は、たいてい学士、あるいは修士を終えてからドイツに来て、1年か2年語学試験の準備をして、その後ようやく正規の学生になるのが普通です。

一方日本人は、来てすぐに正規の学生として学籍登録し、大学の授業に出ながらドイツ語の勉強をし、後で語学試験を受けることも可能です。つまり、日本人の方が、遙かに恵まれた条件にあります。

日本にいると気が付きませんが、外国に住んでみると、出身国によって、条件が全く違う事に否応なく気が付きます。たとえば、日本人はドイツにビザなしで入国できますが、ビザなしでは入国できない国の国民の方が多いです。日本人はEU加盟国の国民ほどではないにせよ、色々な意味で恵まれています。しかし、日本人がドイツで許されることは、日本人であるが故の特権であり、他の大半の国の国民は同じ事を許されていないと言うことが多々あります(私は良く知りませんが、多々あるはずです)。

自分の母国にいる限り、国民は同じ法の下での平等を享受できますが、一旦国の外に出てしまえば、出身国によって異なる条件の下で暮らさなくてはなりません。母国の外では、EU市民、アメリカ人、日本人、韓国人、中国人、トルコ人、モロッコ人、ポーランド人、ユーゴスラビア人、ロシア人、インド人、インドネシア人、ケニア人は、平等ではありえません。つまり、アメリカや日本のような強国の国民が様々な便宜を図られるのに対し、より貧しい小国の国民は、様々な面で強国の国民よりも不利な条件に置かれることになります。

ある国に生まれることは自分で選んだことではありませんが、その後の個人の可能性の広がりを決定的に規定します。それは、ある国の中で、どの階層に生まれるかで、その後の個人の可能性の広がりが決定されることと相似しているので、単なる法的平等という制度的問題にとどまるものではないでしょう。

パリ(訂正:パリ近郊)の暴動などを見るにつけ、本人に決定不可能である条件により個人の可能性が制限されてしまうという(主観的に感じざるを得ない)不条理を緩和することは、社会を安定させるために、本質的に重要なのではないかと思わないではないです。