ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ハンガリーのマリアはゲルダー公を疑っている?

私が研究を進める中で、自分ではできないことは沢山あります。残念ながら私には、語学の才能が絶望的に欠如しているので、語学にはいつも困っています。しかし、この間ブリュッセルに行ったときに写真に撮ってきたハンガリーのマリアの手紙は、フランス語で書かれています。

私はフランス語など習ったこともありませんので、自分では全く読めません。自分で読もうとすると、これからフランス語を一から初めなければなりません。語学の才能の全くない私が16世紀の古いフランス語を読めるようになるまでには、最低数年は掛かることでしょう。現実的に考えれば、無理と言うより他にありません。

しかし、世の中上手くできたもので、自分ができなくても、他の人に助けてもらえば、何とかなることもあります。古文書が読めなければ、読める人に読んでもらい、フランス語が出来なければ、フランス語が読める人に読んでもらおうという具合に、今回も、他の人に助けてもらいました。

というわけで、今日は、知り合いの知り合いのフランス人に、ハンガリーのマリアの手紙を読んでもらいました。幸いなことに、この手紙は、オリジナルではなく、19世紀のコピーなので、彼女にも容易に読解することが出来たようです。彼女は法学部の学生ですが、とりあえずだいたいの内容は分かるようでした。もちろん、16世紀のフランス語はかなり難しいようでしたが、私にだいたいの手紙の内容を教えてくれました。

今回最大の成果は、1534年3月24日のフェルディナンド宛の手紙です。彼女はこの手紙の中で、再洗礼派が次第に広がっており、ミュンスター司教は彼らに対抗できないので、ミュンスターを金銭的に支援するようにフェルディナンドに頼んでいます。また、再洗礼派が諸都市に使者を送っているので、これらの都市に、再洗礼派に注意するよう、知らせて回ったそうです。また、ミュンスターには、男、女、子供だけでなく、兵士も向かっていると述べています。また、デンマークと低地地方では、Layeで フェルディナントが作らせた法に従って、再洗礼派が罰せられているそうです。

また、マリアはゲルダー公から、彼らがミュンスターに行こうとしている再洗礼派を止めようとしているという報告を受けたと述べていたそうです。彼女は、ゲルダー公にもっと情報を知らせて欲しいと頼む一方、ゲルダー公が、全てを正直に報告しているのではなく、自分たちを裏切り、再洗礼派の仲間になったのではないかという疑念を抱いているそうです。そして、フェルディナンドに、再洗礼派の件について、彼の意見を聞かせて欲しいと述べています。

注目すべき点がかなり多い手紙で、私は非常に興味深く内容を聞きました。惜しむらくは、自分で全てを理解できないことです。個人的に注目すべき点を列挙すると、次のようになります。

  • 同時期の他の手紙含めて、マリアがミュンスター司教領の獲得について、フェルディナンドに何も相談していなかったこと。ケルン大司教や、クレーフェ公の疑念とは異なり、マリアは、ミュンスター司教領の譲渡を求めたことは無かったのでは?
  • Laye で作られた、再洗礼派を罰するための法の存在。どの法のことか、頭に浮かばないので、調べ直さなければ。というか、Laye とはどこのことだろう?
  • 攻囲が始まって、一ヶ月も経たないうちに、マリアがミュンスター司教の軍事遂行能力を見限っていたこと。
  • ミュンスターに、男女、子供だけでなく、兵士(傭兵?)も向かっていると認識していたこと。マリアが、ミュンスターの再洗礼派が、軍事的にも力を強めていると認識していたことが、ここから伺える。
  • マリアは、ミュンスター司教、Schenck von Tautenburg 以外に、ゲルダー公からも再洗礼派に関する報告を受けていた。しかし、彼女はゲルダー公のことを疑っていたらしい。この時期ネーデルラントは、デンマークリューベックと戦争をしていたが、ゲルダー公がどちら側に付いているかは忘れたので要確認。いずれにせよ、ハプスブルク家ゲルダー公の間にある程度緊張状態があったことは確か。

他の手紙でも、ルター派や、再洗礼派の拡大に言及しているので、この時期に、マリアが再洗礼派の勢力拡大に危機感を抱いていたのは確かなようです。ネーデルラントでは、この時期、大量のメルキオール派がミュンスターに移住しようとしていたので、そのためでしょう。