ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ベギン−Devotio Moderna−修道院改革をめぐるコメント

12月15日の「それ修道院じゃなくない?」のコメント覧で、id:chororynさんと、少し長いやりとりをしたので、本エントリーに移しておきます。

chorolyn 『教会関連の用語って厄介ですよね。
ドイツ語ははっきり言ってからきしなのですが…Stiftって英語のcanonに当たる言葉なように思えるのですがどうでしょう?で、この場合、参事会員、というか律修参事会員を指しているんじゃないでしょうか。で、さらに詰めると、Nonnenですが、これは盛式誓願をたてた修道女で、要はベネディクト会則を取った修道女のことではないでしょうか。具体的には、中世だとクリュニーやシトー会。英語ではmonkとregularとされますが、monkはベネディクト会則、regularはそれ以外の会則(といっても中世の場合、アウグスティヌス会則しか無いはずですが)となります。恐ろしくかいつまむと、ベネディクト会則を取る修道会は囲いの中で世俗と極力関わらないで生き、それ以外は世俗の中で生きることを否定しません。ちなみに、托鉢修道会っていうのは regularで、アウグスティヌス会則を取ります。ルターのいたアウグスティヌス修士会もこれですよね。
ですから、Stiftsdamen は、律修(托鉢)系の「修道女」かと思われますが、どうでしょう?ちなみに、僕の扱っている13世紀ネーデルラントで展開された在俗女性の宗教運動、ベギン運動も、修道誓願をたてず、共同生活行った在俗の女性たちです。というか、これが魁だったはず。ですからDevotio modernaもむべなるかな、と言われたります。
確かに、聖堂参事会運動はグレゴリウス改革の影響で展開されます。プレモントレ会が有名です。
僕もざっとメモひっくり返して書いただけなので、きちんとした出典を挙げられなくて申し訳ありませんが、とりあえず参考までに。』


# saisenreiha 『おお!!解説どうもありがとうございました。私は、教会関係の知識が余りないので、非常に助かります。頭の中で余り整理できていなかったのが、すっきりしました。Stiftsdamen は仰るとおり、アウグスティヌス会則に従う修道女ということになるようです。Stiftsdame は、Duden を見ると、「1a. Stift の(貴族の)女性のメンバー 1b. Kapitel(聖堂参事会)の女性のメンバー 、Kanonisse (Chorfrauen) 2. (年取った)独身の(貴族の)女性のための家のメンバー」という意味があるらしいです。論文の中でFrauenstift と評されていたSt. Marien-Überwasser は、改革でベネディクト会女子修道院になる前はKanonissen だったということなので、ここの修道女は、Stiftsdamen と呼ばれたことになるようです。
ちなみにミュンスターでもベギン会の施設がありました。Rosentalというんですが。ここは16世紀初めにに司教の圧力により、アウグスティヌス会則を導入して、ベギン会ではなくなりました。
ミュンスターは、Deventer が近かったこともあって、Devotio Moderna の影響をかなり受けているようですが、Devotio Moderna−修道院改革−宗教改革−再洗礼派運動間の関係は、一度きちんと調べてみないとマズイなと、今回の件で痛感しています。』



# chorolyn 『なんだか脈絡のないコメントで申し訳ありませんでした。面白いなと思ったのが、Stift が「貴族の」女性とついているのは、ここ所属できるのが貴族身分がほとんどだったからなんでしょうね。商人などの都市の富裕・中間層女子の受け皿が足りなかったから、半聖半俗に生きる女性の共同体が形成されると推測されます。
実を言うと、Rosental っていうのはちと気になりますのですよ。確かネーデルラントの Rosendaal という所に、シトー系の女子修道院があり(今手元の資料漁っているんですけど見つからず)、13世紀この地の女性の宗教運動に関与しているんですよね。ネーデルラントは、托鉢修道会展開以前は、シトーがセンターとなって女性の霊性をサポートしていました。托鉢が出てくるとその仕事を奪っていくんですが。ベギンは特にドミニコ会が監督することが多かったようです。しかし、ミュンスターのベギンが16世紀まで持つというのは、恥ずかしながら知りませんでした。 14世紀初頭には異端化されますので、ちょっと驚きです。
Devotio Moderna はこの運動の背景にネーデルラント神秘主義が絡んでいると思ったんですけど、このネーデルラント神秘主義って初期ベギン女性たちなもので、先のコメントでいきなりDevotio Moderna とベギンの話をつい先走ってしてしまいました。いや、前から再洗礼派のエントリーを拝読していて、なんだか「似てるなあ」と思っていたもので。
とりあえず流れを掴むには、J . ルクレール/F . ヴァンダンブルーク『キリスト教神秘思想史2 中世の霊性』(平凡社、1997年)はいいですよね。高いし、分厚いですが、事典代わりにも使えますし。
いや、勉強になりました。』


# saisenreiha 『さらなるコメントありがとうございました。KlosterやStift に入れるのは、騎士や貴族の娘だけだったようですね。ベギン会などが市民の娘の受け皿になったというのは、どこかで(イルジーグラーだったか?)読んだことがありますが、名簿とかを分析して、出自を検証した論文とかはあるのでしょうか?
ミュンスターでも、13世紀にベギンハウスがかなりの数あったようです。しかし、大半は13世紀以降史料に出てこなくなったそうなので、潰れてしまったようです。しかし、Rosental以外にも、15世紀末から16世紀初頭まで生き残ったベギンハウスは幾つかあるようです。14世紀初頭の異端化とは、自由心霊派と間違われたからでしょうか?そういえば、以前 chorolynさんのところで、自由心霊派に関するラーナーの著作が紹介されていたと記憶しています。
Devotio Moderna は確かにベギンを思い起こさますね。私も以前、Fraterhaus をベギンハウスのことと勘違いしていた時期がありました。Devotio Moderna の初期には、ユトレヒト司教が生活共同兄弟会にベギンやベガルドを感じ、Groote を説教禁止にし、ドミニコ会士Matthaüus Grabow が、コンスタンツ公会議で彼らの事を問題だと提訴するなど、反対派も結構いたらしいですね。
ネーデルラント神秘主義的伝統と女性の関係というのは、非常に興味深いですね。神秘主義と女性が結びつきやすいのは、女性が教会で司牧に就くことができないという、制度的問題によるのだろうと思います。しかし、何故ネーデルラントやライン地方で盛んだったかについて、定説はあるのでしょうか?実は、私は、女性の信心運動と地域性には、非常に大きな関心を寄せています。というのは、ミュンスター、そしてほぼ間違いなくネーデルラントやフリースラントの再洗礼派は、大多数が女性だったからです。南ドイツやスイスに関しては男女比は分かりませんが、アウグスブルクの集会の逮捕者が男女同数だったところなどを見ると、女性が圧倒的多数ではなかったのではないかということも推測できます。再洗礼派の男女比は、再洗礼派統治期のミュンスター以外では、証明が不可能に近いので、検討可能な問題では無いとも言えるのですが。
『中世の霊性』と言えば、あのもの凄い大著ですね。私は怖れをなして手を出したことはありませんが、やはり読まなければまずいようですね。帰国したら、おそるおそる手を出してみます。』


# chorolyn 『すいません、レスが遅れてしまいました。
ベギン研究だと、日本では霊性史・女性史からの研究のみです。
都市史的分析となると、欧米でもまだ数は少ないと思います。僕がが知る限りでは、ドゥエを取り上げたのくらいでしょうか。
一概に、13世紀に関して都市史的側面をフォローした研究というのはまだ少ないように思われます。


しかし、上條氏の研究では、ストラスブールやケルンを例に数量的な分析を試みています。
ただ、ベギンというのは「修道会」というものではないですし、多くが他の修道会に吸収、あるいは廃止させられているので、document 史料の種類が少ないように思われます。会則も大抵ないですし、会員名簿というのもよくわからない、帳簿か、都市民の遺言書、寄進文書などからの復元が主なのではないでしょうか。

フランスのベギン共同体もいくつか痕跡がありますが、それも寄進文書か、後世に別の会に移行した際の会則とかくらいしか僕は知りません。

14 世紀の異端化の問題ですが、1311年のヴィエンヌ公会議の2つの教令が根拠です。ここでベギンの全面的禁止が明記されます。というものの、この教令の文言はかなり曖昧で、今日我々が考えるベギンは認められているようにも見えるんですよね。ただ、この教令以後、特にライン流域のドイツ地方で、ベギンが迫害されるようになると。自由心霊派がらみというよりは、使徒的生活そのものへの疑念をもつ連中が聖職者側に一定程度いたらしいこと、ベギンを監督していたのが主に托鉢修道会である点が、在俗聖職者との対立を招いたと考えられる点、そしてベギンの活動自体が、偽善の目で見られる傾向があったことなどがあげられていますね。


ネーデルラント神秘主義的伝統と女性の関係ですが、よく言われるのが、13世紀のアントウェルペンのベギン、ハーデウェイヒの作品と14世紀ネーデルラント最大の神秘思想家ヤン・ファン・ルースブルークへの思想的影響という点でしょうか。彼がハーデウェイヒの作品についてよく言及しているんだとか。思想の中身については、僕は専門外なのであまり詳しいことは言えませんけれども。まぁ、この議論をしていくと、「ラインの神秘主義」へと深まっていくので、これまた興味深いのですが大変…。その話はひとまず置くとして、ルースブルークの弟子達やその活動拠点から、後の Devotio Moderna の先導者たちが現われるという流れにあると思います。


なぜ、ネーデルラント・ライン地方なのか?これはまた難しい問題ですよね。一般的な説明だと、まず都市の発展が背景にあげられますね。商人層の台頭、彼らの信仰の高まりと、教会側も彼らへの司牧が急務と感じられるようになった。12世紀後半から、「使徒的生活」を希求する動きが俗人の間で盛り上がって行きますが、これは都市・商人層がメインだったはず。実際、この動きから、ヴァルド派など異端に流れるものがでてきた。そもそも、ヴァルド派の開祖ピエール・ヴァルドもリヨンの商人。ちなみに、初の「現代人俗人」列聖が、13世紀、インノケンティウス3世によってされましたが、その第1号クレモーナのオモボーネも商人でした。さらに付け加えると、初期ベギンと称される女性たちの伝記は13あるのですが、そのうちの大半が商人家系、あとは都市貴族などです。かなり乱暴にまとめると、俗人から湧き起こる敬虔運動をうまく教会の枠内に収める術を持っていなかったというのが、13世紀の教会の問題でした。

で、ご指摘の通り、女性が司牧につけないというのもこの時期大きな問題になります。ただ、より大きい問題として、俗人敬虔運動の内、俗人女性に対する受け皿が非常に少なかったのが、ベギンというような半聖半俗生活の形態を取る女性の共同体を作る一つの要因になったと考えられます。現に、先に挙げたベギン伝の女性たちは最終的にはシトー会に所属しているものが多く、人生の一時期をベギンとして過ごしたと見たほうがいいかと思われます。修道女として受け入れられるか、ベギンでいるか、あとは托鉢修道会ができると、第二会(女子)、第三会(俗人)と受け皿が増えますので、ベギンという形で生きる女性は減っていくのかもしれません。これはきちんと数量的分析が必要ですが。


それとちょっと付け加えておくと、こうした宗教運動は、当然イタリアでも展開されているわけですよね。まさに南北商業ラインの両極でほぼ同じ時期、似たような運動が現われると。


以上、かなり僕の考えが入っている、使用上要注意のまとめでした。』