ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

大昔の小冊子の残酷描写

16世紀は、印刷技術の発達により、飛躍的に出版物の種類と量が増えた時代です。特に、宗教改革派は、自分たちの主張を世に広めるために、積極的に俗語で書かれた小冊子を出版しました。このような小冊子の多くは、論争的な性格を持つもので、プロパガンダの有効な道具として活用されました。

ミュンスター再洗礼派が起こした騒動も、攻囲が長引き、司教が財政的に単独で戦争を継続できないと言うことで、否応なく周りの諸侯も巻き込まれ、全ドイツ的な問題になっていきます。

このような状況の中で、1535年から36年に掛けて敵側が出版した、ミュンスター再洗礼派に関する小冊子が結構な種類出版されました。このような小冊子の幾つかは、後に史料集や雑誌に収録されましたが、全てが刊行されているわけではありません。そのため私は、今日はミュンスター大学図書館にある小冊子を読んでいました。

とは言え、ミュンスター大学にあるミュンスター再洗礼派に関する小冊子は、たった数種類で、他にはアウクスブルクミュンヘン、ベルリンなどの他の街の図書館にあります。

今日読んだのは、Warhafftige geschicht / welcher massen der Gottlosen / vnchristlichen vnd wüterischen Sect der Widdertauffer vermeint auffgeworffen Köning / sampt sein zweyen öbersten Propheten / auff Sonabent nach Sebastiani / des XXXVI. Jahres zu Münster / vom leben zum tode gericht worden / vnd wie sie verstorben sind. という小冊子です。

この小冊子は、1536年に出版されており、(多分)初期新高ドイツ語で書かれています。表紙には、処刑された再洗礼派指導者が檻に入れられ、ランベルティ教会の塔の上から吊されている絵が付けられています。

内容は、再洗礼派指導者3人の処刑の模様、包囲末期の飢餓、ミュンスター外に逃げていた、あるいは追放されていた市民の帰還などについてです。ページ数は10頁もないような短いものなので、記述は簡単なものです。

ただ、ミュンスター王国の王ヤン・ファン・ライデンの処刑の模様はかなりリアルに描かれており、焼けて熱くなったやっとこで彼の身体に肉を引きちぎる処刑が1時間も続き、王はその間苦しみの叫びを上げなかったなどと書いてあります。

個人的には、司教のミュンスター占領後、逃げていた市民の約3分の1が戻ってきたという記述が興味深いです。ミュンスターから逃亡した市民の数は明らかではありませんが、彼らの大半がミュンスターに戻ってこなかったのは、1536年の市民宣誓を行った人数が少なかったことから分かります。

しかし、何故大半の人は帰ってこなかったのか、理由は分かっていません、というより、史料もないし、調べようがないので、誰も手が出せない問題だと言えます。

しかし、小冊子は、なかなか扱いの難しい史料で、この小冊子の記述の信憑性も、なかなか容易には量れないものがあります。ただ、小冊子はたいていそうですが、記述からするとミュンスター司教周辺の誰かが書いている、少なくとも情報を流している感じなので、実際に3分の1ぐらいの逃亡市民が帰ってきたのかもしれません。

小冊子は出版される時期が遅く、諸侯側の史料が豊富になる時代か、占領後に書かれているし、作者不詳で信憑性の判定が難しいので、絶対に必要な史料ではありません。しかし、史料は沢山あるに越したことはないので、見れるだけの小冊子は見ておこうかと思っています。